聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

ユニークな証

ある先生のユニークな証を聞いたことがある。

その先生は、初めて聖書を読んだとき、五分も読んでいられなかったというのである。
五分もしないうちに聖書をバタンと閉じて、何をしたかというと、普段はやったことのない風呂掃除を一心不乱にしたというのである。
またあるとき、再び聖書を開いて読んでみたが、またもや五分と読めずに聖書を閉じ、何をしたかというと、普段やったことのない奥さんの買い物の手伝いをしたというのだ。
聖書を読むと、最初は中々長く読めないけれど、そのうち長く読めるようになるよ、と、確かそのような話だったと記憶している。
わたしはこれを聞いたとき、これがどういうことなのか、なんとなくわかった気がした。

おそらく、聖書の御言葉は痛いものも多いから、その先生はズバッと自分の罪を指摘されて、罪悪感が芽生え、その罪滅ぼしに風呂掃除をしたり、奥さんの手伝いをしたのではないだろうか。

わたしは、以前、「フルーツパフェと煮干し」という記事の中で、聖書の御言葉は苦く、また、苦いを通り越して痛いものもある、と言ったことがあるが、苦く、痛い言葉は悔い改めに導く力があるように思う。
例えば、<神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。(Ⅰヨハ4:20)>などは、私にとって強烈で、痛くてたまらない御言葉であるが、しかし、私を少しづつでも悔い改めに導き、兄弟を愛する方向へと向かわせている。
この先生がどういう御言葉に出会ったのかは定かではないが、少なくとも、風呂掃除や買い物の手伝いという形で悔い改めが現れたことになる。
聖書の痛い御言葉は、人を悔い改めに導く力がある。

<神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(へブ4:12)>

御言葉は両刃の剣よりも鋭いので、痛いのである。
そうして心を丸裸にしてしまうのである。