聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

救わない救い主

<~あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。~(ルカ23:39)>

日本のプロテスタントは悔い改めが弱い、とある先生から聞いたことがある。
これを聞いたとき、プロテスタント全体がどうかはよくわからないが、少なくとも私については全くその通りである、と感じたことをよく覚えている。
おかしな言い方だが、キリスト教プロテスタントの教祖はマルチンルターである。
そのルターは三つのことを強調した。
万人祭司、聖書のみ、そして信仰義認である。
だから、プロテスタントのクリスチャンは、良くも悪くも、信仰による救いをもの凄く強調する団体のように思える。
それゆえ、悔い改めと聞くと違和感を覚え、例えば福音書で言えば、<罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ(マルコ1:4)>、<罪の赦しを得させる悔い改め(ルカ24:46)>などと言って悔い改めの重要性も伝えるマタイ、マルコ、ルカの福音書が読みづらく感じ、ヨハネ福音書の<御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ(ヨハ3:16)>をとりつかれたように唱えてしまうのではないか。
プロテスタントは、悔い改めを脇に置き、イエスを信じる信仰による救いを前面に押し出すため、自我が砕かれ、へりくだる機会が少なくなるのである。
少なくとも私はそうである。

私はお酒の罪には随分苦しんだし、今も時折苦しんでいる。
イエス様に、この罪から救い出してください、と何度祈ったかわからない。
あるときは、とうとう我慢できずに、あなたはなぜ、この罪から私を救ってくれないのですか、と怒鳴り、暴れたこともある。
それは、さながら<あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え>と怒鳴っている犯罪人の片方なのである。
しかし、そもそも、自分の罪に対しては、<われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。~(ルカ23:41)>といって、罪の刑罰を甘んじて受け、へりくだって謝罪すべきであって、開き直って、俺をこの罪から救えと怒鳴るべきではない(苦しみの中にあると叫びたくなる気持ちになるのはわかるが。また、イエスは泣き叫ぶ盲人を救ってもおられるが。)。
己の罪深さに、ただただ頭を垂れるべきなのである。
私は今、自分に言い聞かせている。
イエスはこのへりくだった犯罪人に<~あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます~(ルカ23:43)>と言い、救いを保証してくださった。
一方、<自分と私たちを救え。>とわめいた者には、パラダイスの保証を告げず沈黙されているため、救われたかどうか定かではない。
過激な言い方をすれば、イエスは救い主でありながら、<自分と私たちを救え。>と言った犯罪人を救わなかったのかも知れないのである。
もちろん、究極的に憐れみ深い方であるし、「あなたはゲヘナに落ちるがよい。」とも告げてはいないから、この者も最終的には救われたと信じたいが。
また、この時は、イエス様は全人類の罪を背負って死ななければならないときだったから、この者を救いたくとも救えなかったのかもしれないが。

私は、信仰による救いとともに、悔い改めの重要性も、学び続ける必要を感じる。
これが聖書総合理解、すなわち、神イエスの総合理解につながるように思える。
少なくとも、マタイ、マルコ、ルカの福音書については、違和感なく読めるようになるだろう(あと使徒の働きも)。

※パウロ書簡で最重要のものとされ、ルターが信仰義認の教理を見出したローマ書には、私の調べたところによると、悔い改めという言葉は一度しか登場しない(2:4)。
信仰だとか、信じるという言葉は山のように出てくる。
しかし、聖書を閉じて横から眺めると、聖書全体でローマ書の割合はわずかである。
もちろん、ローマ書の重要性を私は否定しているわけではない。