聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

エチオピアの宦官

<~すると、そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた(使徒8:27、28)>。

なんという飢え乾きだろうか。
この宦官は、一国の財務大臣という高い地位にありながら、他国の神を拝みにイスラエルまで遠路はるばるやってきたのである。
エチオピアからエルサレムまで、その距離はおよそ三千八百キロメートル。
これは、日本では、沖縄から北海道までの距離に相当する。
当時の旅行というのは、片道半年から一年をかけて移動するということがあったようだから、この宦官も長い年月をかけて、わざわざエルサレムまでやってきたのだろう。
しかも物見遊山ではなく、<礼拝のためエルサレムに上>ったとあり、明らかに神を求めてエルサレムにやってきたのである。
さらに驚くべきは、神殿礼拝を終えた帰り道も、<馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた>ことである。
揺れる馬車の中で聖書を読むことは相当困難であると思われるが、そんなことはお構いなしに、熱心に聖書を開いていた。
神を激しく求めていたことがここからもわかる。
相当な飢え乾きだったのだろう。

ここからはさらに想像をたくましくするが、この宦官は、一国の財務大臣にまで上りつめて社会的にも経済的にも成功したものの、喜びに乏しい毎日だったのではないか。
高い地位と引き換えに自分は不具の身にならなければならず(おそらく女王に仕えるに当たっての性的トラブルを避けるため)、結婚の祝福はあきらめなければならなかった。
社会的、経済的成功では満足できず、性的祝福は望みようもない。
一定数の人がそうであるように、この宦官も消去法的に神を求めていったのだろう。
また、もしかすると、神殿礼拝は叶わなかったのかもしれない。
なぜなら<こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない(申命23:1)。>と律法にあるからである。
遠路はるばるやってきたものの、エルサレム神殿を前に、門前払いを食らってしまったことも考えられる。
あるいは、神殿礼拝は叶ったものの、その礼拝は形式に流れすぎていて生きた礼拝ではなかったとか。
考え出すとキリがないが、帰り道に揺れる馬車の中で聖書を開くくらいだから、飢え乾きが解決していなかったことは間違いないだろう。
なんと激しく神を求めていることか。

神はこのような魂を決してないがしろにはされない。
なんと、時の大伝道者ピリポを、この身に欠陥のある外国人に備えなさるのである。
繰り返すが、モーセ律法では不具の者は神から退けられているにも関わらずである。
この時のピリポは、一信者(エルサレム教会の食卓係)でありながら、サマリヤに大リバイバルを起こした大伝道者であり、まさに今、油が乗っているクリスチャンである。
その者を一外国人におしみなく備えなさるのである。
折よく、宦官が開いていた聖書箇所は、十字架のキリストを明確に預言した箇所であり、それゆえ、ピリポもこの上なく伝道しやすかっただろう。

「あなたのその飢え乾きは、社会的成功、経済的成功によって満たされるものでは決してないと思うし、性的祝福が取り去られたから生じてしまったとも言い切れません。
幸せな結婚生活が全てを解決するとは思えないからです。
そうではなく、人は一人の例外もなく神から離れてしまっているから霊魂が飢え乾いているのであり、また、神から離れよう離れようとする性質、これを罪といいますが、この罪があるから、霊魂が飢え乾いているのです。
この根本問題を解決する唯一の方法は、十字架のイエスキリストによってこの罪が処分されたとただ信じ、神との和解を信じることなのです。そして、神に近づこう近づこうとするいのちの御霊を受けて、神の元に帰ることです。
このとき、初めて霊魂に本当の満たしがあり、あなたの飢え乾きは解決するのです。」

私なら上記のように伝道すると思うが、ピリポの伝道はどうだったのだろうか。
<イエスのことを彼に宣べ伝えた(使徒8:35)。>としか書いてないから詳しくはわからないが、とにかく、ピリポの適切な伝道があったのだろう、最後、宦官はバプテスマを受け、<~喜びながら帰って行った(使徒8:39)>のである。
彼はついに救われた。

それにしても、神はまさに天空から全方位を見渡しておられることがわかる。
サマリヤで大リバイバルが起こっている一方で、ガザに下る荒れ果てた道にいる外国人を見落とされない。
まさに、失われた一匹の羊を求めて、救われる必要のない九十九匹を野原に残しているようである(ルカ15章)。
そして、神を激しく求める者には、惜しみなく時の大伝道者を差し出されるのである。
繰り返すが、この宦官はモーセ律法では忌み嫌われていたこうがんのつぶれた者であり、ユダヤ人との付き合いが禁じられていた異邦人なのである。
新約の時代に至って、モーセ律法は終わりを告げ、福音の扉が本格的に開かれていることがここからもわかる。
わたしたちも、どうせ私は気付かれない存在だろう、わたしのような汚れた不完全な者は退けられるだろうと腐らず、熱心に神を求めるべきである。
必ずや、神はその者を救ってくださるだろう。