聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

ウザ打ち

<すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ(Ⅱサム6:7)。>。

いわゆる「ウザ打ち」と言われている聖書箇所である。
ダビデは、サウルよりも信仰心に厚く、神の箱のことを思い起こした。
この時、神の箱は、アビナダブの家に長く安置されており、それを自分の町へ運び出そうとしたのである。
ところが、その道中、神の箱が、牛が引っ張っている台車から落ちそうになったため、神の箱の傍にいたウザが、それを支えようと、反射的に手を伸ばし箱を押さえた。
契約の箱は、決して手に触れてはいけないものだったので、神の怒りがウザの上に下り、ウザはその場でいのちを落とす(心臓発作かなにかだろうか)。
それを見たダビデは、悔い改め、正しい方法で(Ⅱサム6:13)神の箱を運び入れた。

このような話である。
やや、ウザが気の毒のようにも思える。
物が机の上から落ちそうになったら、反射的に手を出してしまうのが人間の性のように思える。
しかし、契約の箱は、決して直接手を触れてはならず、日本でいう御神輿のように、箱の四隅についている環に棒を通して肩にかついで運ばなければならない物である。
そして、レビ族の中のケハテ族が箱を担ぐのであるが、ウザがケハテ族の者だったかどうか、これははっきりしない。
とにかく、台車にのせて運ぶのは、以前、ペリシテ人がとった方法であり(Ⅰサム6:7)、これは律法に反する方法である。
ウザはアビナダブの家で契約の箱とともに長く過ごしており、恵みも多かっただろうが、緊張感も失っていたのだろうし、律法にも精通していなかったのだろう。
つい、軽い気持ちで手を伸ばしてしまったと思われる。
我々もイエス様と共に長く過ごすと馴れ合いになってしまう恐れがある。
それはともかく、ダビデはこれを見て、正しい方法で、改めて契約の箱を運んだ。
おそらく、ウザの位置に誰が立っていたとしても、手を伸ばしていたように思える。
だから、ウザはそこにいた全員の代表として、身代わりの死をとげたといえなくもない。
ウザ以外の者は、無傷なのだから。
それゆえ、わずかではあるが、ウザの中にイエスキリストの十字架が見える。
これにより、ダビデを始めとする全員が悔い改め、神の箱を正しく取り扱った。
私自身も、自分の行いが正しくないとき、同じ過ちを犯していた他の者が懲らしめを受けたことにより、悔い改めたことがある。
自分が痛むことなく、無理なく悔い改めることができたのだ。
そのときの私は、ウザへの裁きを見たダビデのようだったのだろう。
今思えば、感謝なことであった。