聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

ノアに優るイエスキリスト

ノアについて。

<ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。(創6:22)>
<ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。(創7:5)>
<「~箱舟からでなさい。」。(創8:15、16)~そこで、ノアは、~外に出た。(創8:18)>

このように、ノアは、神の命令に一言もつぶやかず逆らわず従っている。
結果、大洪水から救われることとなった。
しかし、残念なのは洪水後のノアの信仰である。

<~神はノアと、その息子たちを祝福して、(創9:1)>
<緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(創9:3)>
<~もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない(創9:11)>

上記のような祝福の言葉が繰り返されたからだろうか。
あるいは、箱舟をやり遂げた安堵感からか、自分を含めわずか八人だけが生き延びた選民意識で高ぶったのか。
彼が<緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。(創9:3)>という祝福を乱用し、<ぶどう酒を飲んで酔(創9:21)>ったのは残念である。
確かに、すべてのものを与えたとあるが、節度を持って楽しむべきだった。
結果、泥酔し、ノアの裸を見たハムの子カナンを呪うこととなった。

ノアは、水の中をくぐって救われたが、彼の品性まではきよめられなかった。
結果、ぶどう酒に酔い、ハムの子カナンを呪った。
(ノアの裸を言いふらしたハムも悪いのではあるが。)
一方、イエスキリストは、水をくぐって洗礼を受け、聖霊のぶどう酒に満たされたお方である。
このお方は、十字架上で、自分を裸にしたローマ兵を赦すのである。
ある意味、ノアは律法の型といえる。
自分の裸を覆ったセムとヤペテを祝福し、自分の裸を見たハムのその子カナンを呪う。
イエス様は福音の型、というより福音そのもの。
自分を裸にしたローマ兵を赦すのである。

私は、ローマ兵のことをとやかく言える立場ではない。
ローマ兵と同様、人に恥をかかせ、せせら笑うことを時折しているからである。
ハムのことも裁けない。
ハムと同様、人の恥を告げてまわることをかつてしていたからである。
イエス様に恥をかかせたことについては、考えたくもない。
私はなんとみじめな男なのだろう。
イエス様がそんな私を赦してくださったとは、信じられないことである。
私がノアの子なら、大変なことになっていた。
まずは、このお方により自分が赦されたことを、繰り返し繰り返し味わうべきと考える。(もちろん、今後は人の恥を笑わないように努めるのは言うまでもない。)
この神の赦しを繰り返し繰り返し体験したその時、私も聖霊に酔い、私自身もまた、相手に恥をかかされても、それを赦せるようになると信じる。
地上のぶどう酒は相手を呪う働きをするが、聖霊のぶどう酒は相手を赦す働きをする。
クリスチャンは、水をくぐって救われ(バプテスマを受け)、聖霊のぶどう酒を飲んだ者である。

話は冒頭に戻るが、ノアは神の命令の御言葉を正しく信仰し、これに従ったが、神の祝福の御言葉を正しく信仰せず、これを乱用した。
人生は、絶頂期がある意味一番危ないのかもしれない。
ダビデもまた、人生の絶頂期にバテシェバ事件を起こし、その後の彼の人生は下り坂で、以前の勢いを取り戻すことはなかった。

好事魔多し。
このノアのつまずきは、サタンのお礼参りともいえる。
我々も注意すべきである。