聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

アメとムチ

キリスト教の大きな特徴の一つは、神が父親だということである。
キリスト教に限らず、神が父であるという神学は見られるが、キリスト教は特にこれを強調するように思う。
イエス様が神を「アバ父」と呼んでよい、と仰っており、イエス様御自身もしばしば、神を父と呼んでいるからである。
神は父で、私たちは子、すなわち親子関係にある、と言うのだ。
「アバ」とは、英語では、ファーザーでもダディでもなくパパなのだそうだ。
最も親しく呼んでよいとのこと。
だから、肉の両親との関係が良好でないと、神との関係にもそれが反映され、アバ父とは呼びづらくなる。多分に、肉の親子関係を神との関係に投影するものだから。

無謀は承知で、神の愛を二つに分けると、厳しい愛と優しい愛になろう。

一般に、家庭において厳しい愛を代表するのは父である。
家庭のルールを決め、違反すれば懲らしめる存在である。
一方、優しい愛を代表するのが、母である。
ルール違反をしてしまう弱い子どもを慰め、励ます存在である。
家庭によっては、逆の役割の場合もあろう。
また、父親が不在がちだと、母親がこの両方を務めることとなり、これは激務である。
日本の家庭はこのケースが多いのではないか。

聖書の神は、この両方をお持ちと思われる。
⦅「聖霊」の原語であるプニューマが女性名詞であるゆえ、聖霊なる神が、母を代表すると唱える人がいる。
説得力はあるが、私が探した限り、聖書に決定的な御言葉を見つけていない。
エルサレムの都が母と呼ばれる聖書箇所はある(ガラ4:26)。
とにかく、聖書を総合的に判断すると、三位一体の神が、母のような包み込む愛を持っておられるのは間違いないだろう。
<彼はいたんだ葦を折ることもなく、(マタ12:20)>など。⦆

例えば、子どもが、食べてはいけない戸棚のお菓子を勝手に食べたとする。
一般的に、父がこれを見つけた場合、なぜ食べたのか説明させ、懲らしめるものだ。
そのようにして、罪の告白をさせ、懲らしめ、その後、赦すのである。

聖書にこう書いてある。
<~父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けてないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。(へブ12:7、8)>
<もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(Ⅰヨハ1:9)>

一方、母がこれを見つけた場合、その罪を咎めず、知らないふりをしてくれたりする。

聖書にこう書いてある。
<(愛は)すべてをおおい、(Ⅰコリ13:7)>
<愛はすべてのそむきの罪をおおう。(箴言10:12)>

つまり、おおよそ、親は子どもが罪を犯したばあい、それを明るみに出して懲らしめるのか、覆い隠し見逃すのかを、それぞれの役割分担に従い、行っているのである。
繰り返しになるが、父が母の役割を務めたり、母が父の役割を務めたり、あるいは一人二役を演ずる場合もあろう。
私は子育てをしたことはないが、お子さんをお持ちの親御さんはもっとこのことがわかるのではないか。

厳しい愛で罪を明るみに出して、懲らしめ、きよめるのも、優しい愛で罪を覆ってお咎めなしにするのも、正反対ではあるが、どちらも必要な愛である。
大変まわりくどい説明になったが、要は、アメとムチで育てるということである。

父なる神は、完全な状況判断により、都度これを使い分けておられ、神の主権により、どちらで愛するかを一方的に決めておられる、と思われる。
私たちを育てるためである。
大袈裟ではなく、天地を動かしてこれをなさるときもある。
この愛を多くのクリスチャンが体験し、生き生きとした地上生涯を送っているのは感謝なことである。
私自身もこの神の二つの愛を体験し続け、神をアバ父と呼ぶ者でありたい。
そうして神の愛を世に伝える者でありたい。