聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

ヒゼキヤに優るイエスキリスト

<~「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリアの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。」(イザ38:5、6)>

病気で死の淵にあるヒゼキヤ王は、<あなたは死ぬ。直らない。(イザ38:1)>という神の御声を聞き、<大声で泣い(イザ38:3)>て治癒を祈った。
すると、このヒゼキヤの必死の祈りが聞かれ、冒頭で神が仰られたように、十五年の延命が許された。
さらに驚くべきは、神が、<あなたとこの町を救い出>すと仰ったことだ。
ヒゼキヤは、重い病気ゆえ無理もないが、自分しか見えておらず、祈りも自分の救いのみを願っているが(イザ38:3)、神は、憐みからだろう、この町(エルサレム)の住民にも十五年の延命を許された。
(この時、アッシリアがエルサレムを陥落しようとする直前ゆえ、ヒゼキヤのみを救っても意味なしと判断されたからでもあろうが。)
ヒゼキヤの涙ながらの祈りで、何もしていないエルサレムの住民も救われたのである。

さて、ヒゼキヤと同様、涙ながらに祈られた方にイエスキリストがいる。
十字架の死を間際に控え、<~自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ~(へブ5:7)>られた。
具体的には、以下のように祈られた。
<アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。(マル14:36)>。
ヒゼキヤと同じように、命を願っておられるが、ヒゼキヤと異なる点は、最後は<あなたのみこころのままを>願ったことである。
ここに、ヒゼキヤに優るイエスキリストが見える。

ある意味、ヒゼキヤとその民は、十五年しかいのちを加えられなかったと言える。
しかし、イエスキリストとその民は、永遠のいのちを与えられたのである。
すべては、<あなたのみこころのままを>願ったイエスの祈りと、その後の十字架のゆえである。
ヒゼキヤの祈りが悪いわけではない。むしろ自然な祈りと言える。
私が言いたいのは、死を間際に控えながら、自分の願いを伝えつつも神第一の祈りを捧げ、そうして、有言実行、十字架に架かられたイエスの凄さなのである。
ヒゼキヤはいのちを求め、イエスはいのちを捨てられた。

父なる神は、このお方を本当に喜ばれ、このお方と、神の民であるクリスチャンに永遠のいのちを与えてくださった。
<~一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。(ローマ5:18)>と書いてあるとおりである。

私は何もしていない。いつのまにか与えられていた。
ただ、信仰により、それを受け取ったにすぎない。
ちょうど、何もせず十五年のいのちを加えられたエルサレムの住民のようである。
しかも、極めて有難いのは、私の王はヒゼキヤではなくイエスであったゆえ、私に与えられたのが永遠のいのちであったということである。

すべては、イエス様の働きによるのである。
感謝してもしきれない。
私は何をもってこれに応答しよう。