聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

罪を背負うアビガイル

<ご主人さま。あの罪は私にあるのです。(Ⅰサム25:24)>。

サウルから命を狙われ荒野を逃亡中のダビデは、食うに困ったからか、<何かあなたの手もとにある物を与えてください。(8節)>と、昔世話をしたナバルを頼ろうとする。
以前、親切にしたのだから、その見返りを求めてもよいと考えたのだろう。
ところが、その名の通り、愚か者で恩知らずのナバルは、このダビデの願いを無下にも退けた(10、11節)。
怒ったダビデは、<あの男は善に代えて悪を返した。(21節)>と言って、ナバル一族を小わっぱ一人残さず殺そうと彼の元に向かう(22節)。
そのおおよそを伝え聞いた(14~17節)ナバルの妻アビガイルは、当然彼女も殺害の対象であったが、ダビデの怒りをなだめようと、多数の贈り物を用意し(18節)、また、みずからもろばに乗って(20節)、ダビデの元を訪れる。
それこそ命がけだっただろう。
このダビデは、怒らせると相当恐い人だし、取り巻きも相当おっかない連中である(Ⅱサム23:8~39)。
例えとして適切かどうかはわからないが、マフィアの親分とその手下たちが怒り狂って向かってきているようなものである。
アビガイルは死を覚悟しただろう。
ゆえに、アビガイルは、ダビデに会うや地面にひれ伏し、必死の願いを捧げた(24~31節)。
夫の罪を連帯責任と考えたのだろう、冒頭の聖句を伝え、それを自分の罪として背負い、赦しを請うた。
ここにイエスキリストの十字架が見える。

しかし、アビガイルは夫の罪を背負いそれを自分のものとしたが、夫を赦してくれと強く祈るほどではなかった(25、26節)。
あくまで<このはしためのそむきの罪をお赦しください。(28節)>と言って自らの赦しに重心を置いたのである。
(アビガイルが夫ナバルの赦しを強く願わなかったのは、夫に本当に愛想を尽かしていたと考えるのが自然であるが、実は、ナバルのことも考えていて、自分が赦されれば、芋づる式に夫も救われると考えていたのかもしれない。)。
ダビデはこのアビガイルの願いを聞き入れ(35節)、アビガイルを救い、ナバルのことも見逃した。
翌朝、このことを聞いたナバルは<気を失って石のようになった(37節)>が、強くは悔い改めなかったのだろう、<十日ほどたって、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ。(38節)>。
もし、ナバルが強く悔い改めていたなら、もし、妻アビガイルが夫の赦しを強く願ったなら、ナバルは長く生きながらえたのではないだろうか。
(ナバルが悔い改めていたなら、ダビデを呼び寄せ、手厚くもてなしたはずである。しかし、聖書にその記述はない。)。

さて、アビガイルは、命がけで自分の赦しを強く願ったが、イエス様は、命がけで、というより、命を捨てて、どこの馬の骨ともわからない赤の他人のような私の赦しのため、十字架に架かられた。
しかも、アビガイルに優るイエスキリストは、一個人ではなく全人類の罪を背負い、十字架に架かられたのだ。
アビガイル同様、助けを願ってはいるが(マタ26:39)、最後は十字架を引き受けられた。
これを神の愛と言わずしてなんというのか。
私は、ただただ感謝するほかない。

また、ダビデは、アビガイルゆえに、ナバルを見逃した。
同様に、天の父は、イエス様ゆえに私のようなナバル(愚か者)を赦してくださった。
だから、かつての私は、神の恩を忘れ、愚かであったように思うが、今後は、少しでもこの神の愛に応えて、神に喜ばれることをしていきたい。
すなわち、悔い改めていきたい。
正直、神の十字架の愛は、私には重すぎる気もするが。



エレミヤの十字架

<そこで彼らはエレミヤを捕え、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。(エレ38:6)>

正しい預言を取り次いだエレミヤ(38:2、3)を、ユダヤの首長たちは、迫害する。
確かに、常識的理性的に考えて、カルデヤ人の手に下ることが救いであるという預言には違和感を覚えるが、神の知恵は、人間の知恵に優る。
首長たちはこれを悟ることができなかった。
悪人が善人を迫害するのは、今も昔も変わらない。
モーセは民衆から、ダビデはサウルから、イエス様は同胞ユダヤ人から、パウロも同じくユダヤ人から迫害された。
ここでは、正しいエレミヤが迫害される。
具体的には、すでにゼデキヤ王によって監視の庭に入っていたエレミヤが、さらに、庭の中の井戸の<穴>に落とされる。
これはイエス様が十字架に架かってよみに下ったことを想起させる。
(詩編では、よみに下ることを穴に落ちると表現することがある。井戸の穴は物質的な穴であるが、霊的な穴を想像させる。)
幸い、井戸の中に水がなかったため、エレミヤは即死を免れたが(38:6)、もう町にパンはなかったので(38:9)餓死は免れられそうになかった。
また、その他の類似点についていえば、首長たちに詰め寄られたゼデキヤ王が<王はあなたがたに逆らっては何もできない。(エレ38:5)>と言って、あっさりとエレミヤを引き渡している点だろうか。
これは、群衆の声に負けてイエスをユダヤ人に引き渡したピラトの姿と重なる。
異なる点は、宦官エベデ・メレクの説得により悔い改めたゼデキヤが、エレミヤを井戸から引き上げることを許可したことだろう(38:9、10)。
とにかく、エレミヤは<穴から引き上げ(38:13)>られ、よみがえった。

使徒の働きを読むと、イエスを十字架に架けたユダヤ人たちは、ペテロの説教により、一定数が悔い改めたと書かれている(使徒2:41)。
しかし、ここでは、エレミヤを井戸に落としたユダヤの首長たちが悔い改めたとは書かれていない(悔い改めをせまる者がいなかったからかもしれないが)。
だが、首長たちが神から懲らしめられたとも書かれてないから、ここに神の忍耐を見る。
また、エレミヤも首長たちに復讐していないから、首長たち悪人は、消極的に赦されているとも読める。
エレミヤは井戸の穴(死)から救われたが、首長たちは、わずかではあるが、エレミヤを殺そうとした罪から救われたのである。
救いとは、やもめやみなしごを経済的、社会的に救うばかりでなく、病人を病いから救うばかりでなく、また、事故災害から救われることだけでもなく、このような悪人を罪から救う(赦す)ことも含まれる。
というより、改めて言うまでもないが、救いの第一義的意味は、経済的、社会的に特別問題もなく、しかも肉体的には健康でありながら、しかし、心が堕落している悪人を罪と死から救うことである。
健康で社会的地位もある首長たちは、エレミヤを殺そうとした罪を赦され、救われた。
もちろん、この首長たちが最後まで悔い改めなければ、この赦しは取り消されるだろう。
イエスを十字架に架けたユダヤ人たちが、最後までその罪を認めなければ、その救いを取り消されるのと同じである。
われわれも、もし、罪を犯していながらしかるべき刑罰を受けていないなら、それはイエスの十字架と復活によりただで赦されているのだから、赦されているあいだにその罪を悔い改めるべきである。
でなければ、首長たちと同様、その救いが取り消されてもおかしくはない。



救わない救い主

<~あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。~(ルカ23:39)>

日本のプロテスタントは悔い改めが弱い、とある先生から聞いたことがある。
これを聞いたとき、プロテスタント全体がどうかはよくわからないが、少なくとも私については全くその通りである、と感じたことをよく覚えている。
おかしな言い方だが、キリスト教プロテスタントの教祖はマルチンルターである。
そのルターは三つのことを強調した。
万人祭司、聖書のみ、そして信仰義認である。
だから、プロテスタントのクリスチャンは、良くも悪くも、信仰による救いをもの凄く強調する団体のように思える。
それゆえ、悔い改めと聞くと違和感を覚え、例えば福音書で言えば、<罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ(マルコ1:4)>、<罪の赦しを得させる悔い改め(ルカ24:46)>などと言って悔い改めの重要性も伝えるマタイ、マルコ、ルカの福音書が読みづらく感じ、ヨハネ福音書の<御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ(ヨハ3:16)>をとりつかれたように唱えてしまうのではないか。
プロテスタントは、悔い改めを脇に置き、イエスを信じる信仰による救いを前面に押し出すため、自我が砕かれ、へりくだる機会が少なくなるのである。
少なくとも私はそうである。

私はお酒の罪には随分苦しんだし、今も時折苦しんでいる。
イエス様に、この罪から救い出してください、と何度祈ったかわからない。
あるときは、とうとう我慢できずに、あなたはなぜ、この罪から私を救ってくれないのですか、と怒鳴り、暴れたこともある。
それは、さながら<あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え>と怒鳴っている犯罪人の片方なのである。
しかし、そもそも、自分の罪に対しては、<われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。~(ルカ23:41)>といって、罪の刑罰を甘んじて受け、へりくだって謝罪すべきであって、開き直って、俺をこの罪から救えと怒鳴るべきではない(苦しみの中にあると叫びたくなる気持ちになるのはわかるが。また、イエスは泣き叫ぶ盲人を救ってもおられるが。)。
己の罪深さに、ただただ頭を垂れるべきなのである。
私は今、自分に言い聞かせている。
イエスはこのへりくだった犯罪人に<~あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます~(ルカ23:43)>と言い、救いを保証してくださった。
一方、<自分と私たちを救え。>とわめいた者には、パラダイスの保証を告げず沈黙されているため、救われたかどうか定かではない。
過激な言い方をすれば、イエスは救い主でありながら、<自分と私たちを救え。>と言った犯罪人を救わなかったのかも知れないのである。
もちろん、究極的に憐れみ深い方であるし、「あなたはゲヘナに落ちるがよい。」とも告げてはいないから、この者も最終的には救われたと信じたいが。
また、この時は、イエス様は全人類の罪を背負って死ななければならないときだったから、この者を救いたくとも救えなかったのかもしれないが。

私は、信仰による救いとともに、悔い改めの重要性も、学び続ける必要を感じる。
これが聖書総合理解、すなわち、神イエスの総合理解につながるように思える。
少なくとも、マタイ、マルコ、ルカの福音書については、違和感なく読めるようになるだろう(あと使徒の働きも)。

※パウロ書簡で最重要のものとされ、ルターが信仰義認の教理を見出したローマ書には、私の調べたところによると、悔い改めという言葉は一度しか登場しない(2:4)。
信仰だとか、信じるという言葉は山のように出てくる。
しかし、聖書を閉じて横から眺めると、聖書全体でローマ書の割合はわずかである。
もちろん、ロマ書の重要性を私は否定しているわけではない。

 

 

恵みに生きるということ

イエス様に出会って、30年余りの月日が流れた。
その間、随分逆らったが、ようやく信じる決意をし、正式に受洗して17年程が経つ。
振り返ると、洗礼を受けたての頃は、良きにつけ悪きにつけ燃えていたように思う。
私の霊が燃えていたのか、私の肉が燃えていたのか定かではないが。
とにかく、熱心に礼拝を守り、教会奉仕をしていたものだった。
やがて完全献身を決意し、神学校に通い、卒業し、ある教会に寝泊りをしながら完全奉仕をしていた時期もあった。
ところが、この辺りで限界を感じ、燃え尽きはじめてしまい、その教会を去り、やがて礼拝をも休むようになってしまった。

今では、普通に社会人をしており、クリスチャンとしては、特別証しをする訳でもなく、会社の同僚に伝道するのでもなく、ただただ普通になってしまった。
私の肉的な夢は、メガチャーチを立ち上げ、そこの主任牧師になることだったが、それもどうでもよくなってしまった。
自分を慰める聖書解釈は、イスラエル民族で完全献身をするのは、原則レビ族の役割で、残りの11部族は、礼拝を守りながら普通に生活をすることだから(友人、知人に伝道などをしつつも)、私はその残りの11部族なのだろうということである。
とにかく、良くも悪くも落ち着いてしまったのである。

皮肉なもので、クリスチャンとしては平凡な毎日が続けば続くほど神の恵みが身に染みてわかるようになった。
<恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどま(ローマ6:1)>ろうといって悪意を持って特別悪に染まっている状態ではないから、真の恵みを体験している訳ではないのかもしれないが、かといって積極的に善を行っているわけでもないから、神からの特別報酬を得ているのでもない。
本当に燃え尽きてしまい、証をしよう、奉仕をしようという気持ちが空になってしまい、平凡になったのである。
今では、この聖書ブログで時折つぶやく程度になってしまった。

パウロが言っているように、何かの働きをして得られるのは報酬であって恵みではない(ローマ4:4)。
何の働きもしていない者がただで得られるのが恵みである。
今の私は、クリスチャンとしては特別な働きはしていないが、それでも健康が守られ、経済が守られ平穏に暮らしている。
だから、これこそパウロが言う神の恵みなのだろう、と思うようになった。
繰り返しになるが皮肉といえば皮肉である。
平凡な毎日を送れば送るほど神の恵みを実感できるのだから。
そして、悪に染まっていれば、最も神の恵みを体験できるのだから。

私の今後の人生がどう展開していくのか、自分でもわからない。
年齢的には、すでに折り返し地点を越え、残り時間も少なくなってきているが、そんな中、私が意識するのは、モーセの存在である。
モーセの公生涯は、80を超えてスタートした。
実に、神は、モーセを整えるのに80年の月日を費やしたのである。
聖書には様々な人が存在する。
20才程で働きに入ったエレミヤのような者もいる。
イエス様は30才。
神の計画は実に様々である。
私はほぼ燃え尽きてしまっているが、モーセのような者がいるのだから、私を再び用いてくださることがあるかもしれない。
もし、そのようなことがあるなら、そのときは、少しでも神と人とに喜ばれる働きをしたいと思う。


<最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。(Ⅰコリ15:46)>
<イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。~「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(ヨハネ2:7~10)>



ごはんがお腹一杯食べられる国

随分前のことになるが、テレビで前大阪府知事の橋本徹氏と木村太郎氏の対談を見た。
木村氏と言えば数々の報道番組でキャスターを務めた方である。
そこで木村さんが興味深いことを仰っていた。
「私の幼少期は、戦争で国中に食べ物がなくて本当に苦労した。どれ程、御飯がお腹一杯食べられたらと思ったことだろう。だからなんとしてでも日本を御飯がお腹一杯食べられる国にしたかった。そして我々世代は戦後一生懸命働いて、それを実現した。
今では日本で食べ物に困ることはない。だから、僕はもう満足だ。
ゆえに、これから日本をどういう国にしたいのかはあなたがた若い世代が自分で考え自分で作り上げていきなさい。」
確かこんな内容だったと思う。
私はこれを聞いて、すごく納得したことを憶えている。
木村さんと私の父はほぼ同世代なのだが、同じようなことを言っていたからだ。
「お前らに食べ物の苦労だけはさせたくなかった。俺は芋はもう見たくない。
子供のころ、食べるものがなくてまずい芋を嫌というほど食った。」
確かに、私は食べるものに困った記憶がない。
親父は家ではいつも母に怒られていてなかなかリスペクトできないが、この点に関しては本当にリスペクトしている。
そのくらい、親父は私たちを食べさせるために朝から晩までよく働いていた。

私の父や木村さんのような人が日本に多かったからだろうか。
戦後、日本は超がつく経済大国になった。
いまでは24時間営業の店も増え、行けばたくさんの食材があふれている。
外国の珍しい食材まで置いてある。
日本はほぼ食べ物に困ることはなくなった。
しかし、ある飢饉が浮き彫りになることになる。

霊的飢饉。
自殺大国日本と言われて久しい。
これだけ物質的に裕福でも幸せとは限らないと、この国の自殺者数が如実に語っている。
物質だけでは限界があることを否が応でも認めざるを得ないところにきている。
<人はパンのみに生きるにあらず(マタ4:4)>という言葉のとおりである。
日本ほど心の問題を浮き彫りにしている国は他にないのではないだろうか。

ただ、前向きな言い方もできる。
平和だからこそ心の問題に取り組めるのだと。
食べ物の問題がないからこそ心の問題に取り組めるのだと。
私の祖母がこんなことを言っていた。
「私たちはその日その日食べていくことで精一杯で自分の内面を考える余裕はなかった。戦争もあったし。」
ある意味、今日の私たちが、自分探しだとか、セルフイメージ、承認欲求など、心の問題に取り組めるのは、日本が平和だからと言える。
戦争等、危急時に、内面を見ている余裕などないだろうから。

実は聖書の福音書の時代のイスラエルも、今の日本と似ていたように思う。
平和であること、食料飢饉がないこと、宗教の自由が認められていた点においてである。
福音書当時のイスラエルは、「パックスロマーナ」といわれる、世界史上まれにみる平和の時代であった。
地中海周辺はローマ帝国の圧倒的な軍事力によって平和が保たれており、属国のイスラエルも収めるべき税を収めれば宗教の自由も認められており、ある意味過ごしやすい時代だったといえる。
そんな中でイエスは平和の君として地上に降臨された。

一方今日の日本は、軍事的には四方を海に囲まれていることもあって、隣国から攻められる心配はほぼない。
政治的にはアメリカの傀儡政権のようではあるが、世界有数の治安のよい過ごしやすい国である。
経済的には上記で触れたように、超がつく経済大国である。
宗教的にも自由が認められている。
日本とイスラエルはこの点で似ていないだろうか。

しかし、政治、経済、宗教的に恵まれていても、この両国のこころに真の安息があるとはいえない。
イスラエルの場合は、律法主義の閉塞感で国中満ちていたように思う。
日本の場合は、なんとも言えない虚無感から自殺を図る人が多数存在する。
だから、まさに今の日本に必要なのは当時のイスラエルと同様、イエスキリストではないだろうか。
真の安息が何かを伝え、それを与えるキリスト。
このお方が必要なのではないか。
繰り返しになるが、これは軍事的、政治的に平和だからこそ、経済的に豊かだからこそ考えられることなのだ。
戦争の最中、食料危機の最中であれば、こころの問題など二の次になるのだから。

初臨のイエスは霊的メシヤとして降臨された。
すなわち、全人類が抱える根本的問題、罪と死の問題の解決のためである。
なお、軍事的政治的メシヤとして訪れるのは再臨のときである。
とにかく、どれ程、地上で平和に幸せに暮らしたとしても、神との交通が途絶えているなら、閉塞感や虚無感から、真の平安は期待できないのである。
日本人のこころに真の平安がないのは、イエスキリストとその父なる神を知らないからである。
それは当時のイスラエルも同様である。
我々クリスチャンはこのお方を伝える義務がある。

冒頭の言葉に戻るが、木村さんの世代の働きにより、日本は経済的問題はほぼ解決しており、食べ物に困ることはまずない。
では、これからの日本をどのような国にしていけばよいのか。
それは、霊の糧を全国民に供給する国にしていくことではないのか。
真の意味でそれを可能にする唯一のお方がイエスキリストであるのは、上記で申し上げたとおりである。
我々世代とりわけクリスチャンは、このお方を伝え、日本を広くイエスを信じる国にしなければならない。
それが、我々世代がやらなければならないことである。