聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

いのちの木

ヨハネの福音書は、イエスの葬られた墓とエデンの園の一致をほのめかせている。

<イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。(ヨハ19:41)>

ヨハネの福音書のみが、イエスの墓が<園>にあると伝えている。
御使いが二人とはっきり伝えているのは、ルカの福音書とヨハネの福音書である。
墓石を転がしたとは、すべての福音書で伝えられている。

これはエデンの園を暗示してはいないか。

エデンの園      = 園
ケルビム       = 二人の御使い
輪を描いて回る炎の剣 = 転がされた墓石

アダムとエバの罪ゆえに閉ざされた、(永遠の)いのちの木への道は、開かれたことをヨハネの福音書は伝えていないだろうか。
イエスが葬られた場所を園と表現し、御使いが二人と言うことにより、ケルブ(御使い)ではなく、ケルビム(御使いたち)であると伝えている。
(ケルブは直訳すると、天的存在という意味であるが、御使い、と訳しても問題はないように思われる。)
なお、モーセの契約の箱の両脇にも、ケルビムが飾られている(出エジ25:18)。
墓石が丸いのか四角いのかについては、聖書は沈黙しているのでわかりかねるが、もし、墓石が丸かったのであれば、それはエデンの園の炎の剣(創3:24)を想起させる。
そうだとすると、墓石が取り除けられたとは、すなわち、エデンの園における炎の剣が取り除けられたことと考えられないだろうか。
もちろん、これだけでは、聖書的根拠に乏しいのかもしれないが、ヨハネはエデンの園を意識しているように思える。

二人のケルビムによって炎の剣(墓石)は取り除けられたが、その中にいのちの木は立っていなかった。
マリアは後ろを振り向き、いのちの木、すなわち死を克服したイエスキリストを見ることとなった。
また、エルサレムでは、戸が閉めてあるにも関わらず、弟子たちにも現れてくださり、ガリラヤや、エマオの途上でも現れてくださった。

このように、当時は、至るところで、復活のイエス様は現れてくださったが、では、今日の私たちは、どうすればイエスキリストに会えるのだろう。
墓場を探しても、二人のケルビムからは、<ここにはおられません(マタ28:6)>と言われてしまうのである。
もう、おわかりであろう。
イエスキリストは、信じる者、わたしたちクリスチャンの内におられるのである。
ある意味、(永遠の)いのちの木は、私たちクリスチャンの内に立っているのである。

今日、この世界全体が、一種の墓場であると言える。
なぜなら、この世界は、神に対して死んでいる者の集まりだからである。
だから、この世界にイエス様を探しても、それは、墓場の中を見ているようで、<ここにはおられません>と言われてしまうのではないか。
灯台下暗しという言葉が適切かどうかはわからないが、外を探すのではなく、私の内におられるのである。

また、もし、いのちの木=御霊の木と取るなら、クリスチャンの内に、内住のキリストとして御霊の木が立っており、それにより、御霊の九つの実(ガラ5:24)をならせ、隣人はそれを食べていのちを得ることになる。
柔和な人の周りには、多くの人が集まるものである。

アダムとエバが決して近づけなかったいのちの木は、私たちクリスチャンの内に立っており、彼らが食べられなかった御霊の実は、私たちクリスチャンの内に実っており、隣人が存分に食べて、いのちを得るのである。
もちろん、私たち自身もこの実を食べていのちを得るのは、言うまでもない。

⦅最終的には、もちろんエルサレムの都にいのちの木はあるのですが(黙示22:2)、ここでは霊的な意味でのいのちの木という意味です。⦆