聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

エレミヤの十字架

<そこで彼らはエレミヤを捕え、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。(エレ38:6)>

正しい預言を取り次いだエレミヤ(38:2、3)を、ユダヤの首長たちは、迫害する。
確かに、常識的理性的に考えて、カルデヤ人の手に下ることが救いであるという預言には違和感を覚えるが、神の知恵は、人間の知恵に優る。
首長たちはこれを悟ることができなかった。
悪人が善人を迫害するのは、今も昔も変わらない。
モーセは民衆から、ダビデはサウルから、イエス様は同胞ユダヤ人から、パウロも同じくユダヤ人から迫害された。
ここでは、正しいエレミヤが迫害される。
具体的には、すでにゼデキヤ王によって監視の庭に入っていたエレミヤが、さらに、庭の中の井戸の<穴>に落とされる。
これはイエス様が十字架に架かってよみに下ったことを想起させる。
(詩編では、よみに下ることを穴に落ちると表現することがある。井戸の穴は物質的な穴であるが、霊的な穴を想像させる。)
幸い、井戸の中に水がなかったため、エレミヤは即死を免れたが(38:6)、もう町にパンはなかったので(38:9)餓死は免れられそうになかった。
また、その他の類似点についていえば、首長たちに詰め寄られたゼデキヤ王が<王はあなたがたに逆らっては何もできない。(エレ38:5)>と言って、あっさりとエレミヤを引き渡している点だろうか。
これは、群衆の声に負けてイエスをユダヤ人に引き渡したピラトの姿と重なる。
異なる点は、宦官エベデ・メレクの説得により悔い改めたゼデキヤが、エレミヤを井戸から引き上げることを許可したことだろう(38:9、10)。
とにかく、エレミヤは<穴から引き上げ(38:13)>られ、よみがえった。

使徒の働きを読むと、イエスを十字架に架けたユダヤ人たちは、ペテロの説教により、一定数が悔い改めたと書かれている(使徒2:41)。
しかし、ここでは、エレミヤを井戸に落としたユダヤの首長たちが悔い改めたとは書かれていない(悔い改めをせまる者がいなかったからかもしれないが)。
だが、首長たちが神から懲らしめられたとも書かれてないから、ここに神の忍耐を見る。
また、エレミヤも首長たちに復讐していないから、首長たち悪人は、消極的に赦されているとも読める。
エレミヤは井戸の穴(死)から救われたが、首長たちは、わずかではあるが、エレミヤを殺そうとした罪から救われたのである。
救いとは、やもめやみなしごを経済的、社会的に救うばかりでなく、病人を病いから救うばかりでなく、また、事故災害から救われることだけでもなく、このような悪人を罪から救う(赦す)ことも含まれる。
というより、改めて言うまでもないが、救いの第一義的意味は、経済的、社会的に特別問題もなく、しかも肉体的には健康でありながら、しかし、心が堕落している悪人を罪と死から救うことである。
健康で社会的地位もある首長たちは、エレミヤを殺そうとした罪を赦され、救われた。
もちろん、この首長たちが最後まで悔い改めなければ、この赦しは取り消されるだろう。
イエスを十字架に架けたユダヤ人たちが、最後までその罪を認めなければ、その救いを取り消されるのと同じである。
われわれも、もし、罪を犯していながらしかるべき刑罰を受けていないなら、それはイエスの十字架と復活によりただで赦されているのだから、赦されているあいだにその罪を悔い改めるべきである。
でなければ、首長たちと同様、その救いが取り消されてもおかしくはない。