聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

ちりあくた

<私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。
きっすいのへブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリ3:5、6)>

これは、いくつかあるパウロの自己紹介の中の一つである。
しかし、いわゆる上記の宗教的身分についてこのように続ける。

<~私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリ3:8)>

すなわち、自分の宗教的身分を含めた一切を、<ちりあくた>と表現している。
このちりあくたは、やわらかい訳語で、原語に忠実に訳すと「排泄物」になるという。
パウロは、宗教的肩書をう〇〇だと、吐き捨てるのである。

パウロという人は激情的なところがあって、例えば、ガラテヤ書では、割礼を宣べ伝えているユダヤ人に、そんなに割礼が好きなら<いっそのこと不具になってしまったほうがよい(ガラ5:12)>と言い、まるごと切り取ったほうがよい、と皮肉をこめて強烈に言ったりする。(筆者の解釈ですが。)

このような調子で、ここでは宗教的肩書に激しく嫌悪感を抱き、う〇〇と言って、強烈に退けている。
すべては<キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思って(ピリ3:8)>いるからなのである。
イエス様を知れば知るほど、宗教的肩書に悪臭を感じるようになるというのである。

私は正直、パウロほどの思いはない。
宗教的肩書によりすがっている部分があるからである。
ということは、イエス様のことをそれほど知ってはいないのだろう。
イエス様を知れば知るほど、肩書に虚しさを感じるのだろうから。

冒頭の聖句を現代風に訳すと以下のようになろうか。
「私は幼児洗礼を受け、いわゆるクリスチャンと呼ばれ、由緒正しき~教団の者です。
地上では旅人を自負しており、聖書解釈については~神学校出身、その熱心は教会を迫害したほどで、普段の行動においては、非の打ちどころのないほどに聖書的な生活を送っています。」。

このような宗教的身分に拠り頼むなら、要注意ということなのだろう。
イエス様のことを、親しく知ってはいないのだろうから。
改めて自戒したい。