聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

救われたのに苦しい ②

では、苦しい荒野を通り抜けた後の、待望のカナンの地は平和の地なのか。
そうではない。
ある意味、戦いは熾烈を極める。
荒野では、私の調べによると、シホンとオグを含む九人の王と戦い、勝利しているが、カナンの地においては三十一人の王と戦い、勝利を収めている(ヨシュア12章)。
もちろん、数字だけで単純比較は出来ないのかもしれないが、少なくとも、戦いの数は三倍以上に膨れ上がるのである。
<~天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタ11:12)>。
<小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ~(申命8:8)>は、戦いの中で得られるものである。
私の内に残っている私の肉と、イエスから十字架の鉄槌を下され虫の息となっている悪魔と悪霊どもと戦い、得ていくものである。

救いは、ある意味、始まりと言える。
<キリスト・イエスのりっぱな兵士として(Ⅱテモ2:3)>、戦いに勝利し、さらなる恵みを勝ち取り、救いを達成しなければならない。
本当の本当の平和の地は、新天新地まで待たなければならないのである。

イスラエルの第一世代が荒野で自然死したのは、神の裁きであり神の憐れみでもあったように思う。
彼等のメンタルでは、カナンの戦いを生き抜くことは、到底、叶わぬことだっただろう。
だから、荒野というカナンに比べれば平和の地で、しかし、その代償として乳と蜜の流れる地には入らせず、生涯を全うさせたのだ。

私はこれを他人事とは思えない。
私は、立場上は、信仰により、カナンの地(天の御国)に入ってはいるが、体感としては、荒野に戻ってしまったように思えることが時折あるからである。
ある先生は、紅海徒渉を水のバプテスマ、ヨルダン川横断を聖霊と火のバプテスマと、霊的に捉えておられる。
決定的な聖書的根拠はないように思えるが、大胆で興味を惹かれる説である。
いずれにしても、私自身、「世的な祝福が何もない」と言って、荒野でモーセと争っているのか、「真の祝福を勝ち取るぞ」と言って、カナンの地で、肉と戦い悪魔や悪霊たちと戦っているのかわからなくなるときがある。
ひどい時には、エジプトにまで戻ってしまったのかと思えるときさえある。

世俗にどっぷり浸かって流されるなら、それはエジプトに戻ってしまったのであり、世俗と分離して引き籠るなら、それは荒野で足を止めているのであり(荒野での修養は時折必要ではあるが)、世俗と関わりつつ、クリスチャンとして、地の塩、世の光として、しっかり善を行い悪を避けているのなら、その者はカナンの地で激しく戦っているのである。
そういう人は、周囲のノンクリスチャンから一目置かれているに違いない。
また、その者は神の国を押し広げているのである。
どれ程、神から喜ばれているだろう。
もちろん、<小麦、大麦(申命8:8)>というパン(御言葉)を得、<ぶどう(申命8:8)>から聖霊のぶどう酒に満たされ続け、生き生きと歩んでいるに違いない。

イスラエルは<モーセにつくバプテスマを受け(Ⅰコリ10:2)>、救いに入ったが、我々クリスチャンは、<キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた(ローマ6:3)>者である。
残された地上生涯を戦いぬき、救いを達成させなければならない。
時折、エジプトにまで逆戻りするように思えることがあっても、あきらめてはならない。
有難いことに、我々を率いているのは、モーセに遥かに優るイエスキリストなのである。
何を思い煩うことがあろうか。

<~それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。(申命8:16)>。