聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

救われたのに苦しい ①

以前、信仰の先輩である母に聞いたことがある。
母はいつも明るく歌を歌っている人だから、ついうらやましくて聞いたのである。
「やっぱりクリスチャンになったから、そんなに明るくなれたの?」
母は答えて言った。
「そんなことはなかったわ。洗礼を受けて始めの十年は、苦しくて仕方なかったわ。」
それを聞いて不思議と納得したことを記憶している。
私自身、その頃、苦しくて仕方なかったからである。
洗礼を受けて解放されるどころか、依然、苦しいままだったのである。

しばらくして、あることに気づいた。
イスラエルの民は、エジプトから救われて、荒野に放り出されたという聖書である。
そこは、食べ物はマナばかりで、民は何かにつけモーセに嘆いていた。
<~イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。~(民数11:4、5)>。
つまり、エジプト時代は奴隷の苦役はあったが、食べ物には困らなかったのである。
肉なべを食べていたともある(出エジ16:3)。
しかし、荒野は文字通り何もない殺伐としたところで、大の大人が<大声で泣>いてしまう程、辛いところなのである。
私はカレーライスが大好きである。
しかし、毎日食べろと言われたら、さすがに辛いだろう。
だから、イスラエルの民が、毎日マナしか食べられず、辛いのは十分に共感できる。

神はなぜ荒野という殺伐としたところにイスラエルを放り出したのだろう。
これのどこが救いなのだろうか。
答えは、おそらく神と深く交わらせるため、であろう。
世俗的なものがあふれたところは、気が散ってしまうのである。
意識がそちらに向いてしまい、神に心を向けるのが困難になる。
ヒゼキヤは、本腰を入れて祈るときに、<顔を壁に向けて、主に祈っ(イザ38:2)>たとある。
神と深く交わるときは、余計な情報を排除する必要がある。
何もないところでは、少しづつでも意識は神に向いていくものだ。
故に、イスラエルは、シナイ山でモーセを通して神を見る恵みに預かったとも言える。
荒野で一度、世俗的喜びから切り離し、神と深く交わらせて力を得、その後、約束の地カナン、すなわち地上の天国(矛盾した言い方であるが)へ、入らせるのである。
だから、永遠に荒野で過ごせと言っているのではない。
荒野である程度修養した後、<小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこはあなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、~(申命8:8、9)>へ導くのである。
しかし、大多数のイスラエルは、約束の地を拒み、荒野での生涯を選んでしまった。

私が苦しかったのは、世俗的喜びから一旦、切り離されたからである。
荒野で霊的充電をしていることを悟らず、表面上の喜びがない、といって苦しんでいたのである。
エジプト(世)を懐かしみ、何度戻ってしまっただろうか。
実にこの期間、母の十年を優に超えていたのである。
しかし、この十数年の間に、私の内にいる荒野を嘆くイスラエル人は少しづつ死に絶え、ヨシュア(イエス)と勇敢なカレブ、そして荒野で生まれ訓練された新たなイスラエルが私の内に残されていったのである。