聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

ヨブ記概観

ヨブ記は、最初と最後は散文で書かれているゆえ読みやすいが、3~41章は、詩文、韻文で書かれているからか、難解でわかりづらい。
そのため、繰り返し繰り返し読んで理解を深めなければならないが(これは聖書のすべての部分に言えることだが)、一旦、仮の概観としてまとめると以下のようになった。
今後、加筆、修正の可能性は十分にありえる。

きよく正しく生きていたヨブに、突然、身に覚えのない強烈な災難がふりかかる(全財産を失い、十人の子どもを失い、自身は全身皮膚病となる)。
それを聞いた四人の友人は、心配してヨブの元に駆けつけるが、ヨブを慰めるどころか、なんと、ヨブを非難し始めた。

四人の友人に共通して言えることは、災難の原因をヨブの罪としたことである。
つまり因果応報の原理に従い、災難が起こるのはヨブの悪行(罪)ゆえである、と決めつけたのだ。
友人たちは遠方からかけつけているゆえ(2:11)、ヨブの普段の生活態度を知ってはいないだろうが、ヨブの有様を見て、普段の行いが悪いからバチが当たったのだろうと決めつけ、だれか罪がないのに滅びた者があるか(4:7)といって非難をはじめる。
そして、へりくだり悲しむなら(エリパズ)、憐れみを請えば(ビルダテ)、悪を捨てれば(ツォファル)回復するととにかく諭すのである。
エリパズとビルダテに至っては、神の前に潔白な者などいない(4:17)、女から生まれた者できよい者などいない(15:14)(25:4)といういわゆる原罪を持ち出し、人は過去の罪どころか生まれたときから罪で汚れているのだから、すべての者が災難にあっても仕方がないと言う乱暴な論理でヨブを諭すのである。
ヨブは、はじめ、生まれてこなければよかった(3:3)と自暴自棄になっているが、友人たちが慰めるどころか非難を始めるゆえ、友からは友情を(6:14)、あわれめ、あわれめ(19:21)と訴えつつ、弁解をはじめる。
ヨブが最も大事にしているのが「私は潔白で正しい」という思いであるが、友人たちはそれを否定し、あなたが罪で汚れているから災難に遭うのだ、と言ったからである。

ヨブの主張は、いわゆる逆張りを含むものである。
友人たちの主張の中心は、冒頭でも述べたように因果応報思想なのだが、ヨブはそんなことは私も知っていると繰り返し言い(9:2、12:3、13:2等)、逆に、潔白な者も滅びる(9:22)、悪人でも長生きする者はいる(21:7)といって、自分のように潔白であっても災難に遭うことはありうるし、悪人なのに災難を免れることもあると言うのである。
また、神がただ理由もなく一方的に私を苦しめているのだと併せて主張する(9:17、16:9等)。
ついには、愛のない友人に見切りをつけ、ヨブを弁護する真の弁護人、まだ見ぬイエスキリストを見出し(16:19、16:21、19:25)、神と自分の間に立ってほしいと願う。
また反対に、弁護人を介さず直接この件について神と議論し、災難の原因を知りたいという思いも強めていく(13:3、23:4)。

皆さんも見たり聞いたりしたことがないだろうか。
「なぜあんないい人があんな目に会うのだろう」という出来事を。
ここでは、そんなヨブに、友人たちは「いや、どこかで何か悪いことをしていたんだよ、なんなら、人間は生まれたときから悪い存在なのだから、不幸に会っても仕方がないよ」と言ってほとんど慰めの言葉もかけず、最後までこの考えで悔い改めをせまるのである。
満身創痍のヨブに対してである。
人はひとりの例外もなく、たたけば埃もでる存在である。
ヨブとて、義人とはいえ、完全無欠な存在ではない。
しかし、この状況で非難するだろうか。

友人たちの二回目のターン(15章~)は、神論から一般的悪人論に重きを置く。
すなわち、一般的な悪人の有様を提示することによって、今のヨブの有様と類似していると遠まわしに伝え、ヨブに悪を認めさせようとするのである。
例えば、エリパズは、悪人はその財産も長くもたず(15:29)と言い、ビルダテは、その住みかにはひとりの生存者もなくなる(18:19)と言い、ツォファルは、満ち足りているときに彼は貧乏になって苦しみ(20:22)などと言って、ほら、世の悪人の姿が今のヨブの姿と似ているではないかとせまって、ヨブに悪を認めさせようとするのである。
三回目のターンでは、ついにエリパズが、当てずっぽうでだろうか、あなたは理由もないのにあなたの兄弟から質を取り、裸の者から着物をはぎ取り(22:6)などと決めつけ、そのような悪いことをしているから災難にあうのだと、「悪人は」とは言わず「あなたは」と言って直接非難し、悔い改めをせまった。

これを受けて、とうとうヨブも、長い独白の後半で、今までの歩みを事細かに説明する(29~31章)。
先のエリパズの、弱者からむしり取って裕福になったのだ、という非難に対しては、貧しい者やみなしごの面倒を見た(29:12)と言い、さらには、周囲から尊敬されるほどに社会的に認められた者だったと付け加え(29:8、21)、中には、友人たちが咎めた訳でもないのに、女性関係のきよさまで(31:1)訴えて、自身の正しさを証明しようとした。
そうして最後まで身の潔白を手放さないのである。

しかし、ヨブ自身、罪を認めているところもある。
ヨブ自身、誰がきよいものを汚れたものから取り出せましょう(14:4)、神は若いときの咎を受け継がせようとしている(13:26)などといって、先天的罪(原罪)、後天的罪(生まれてから犯す罪)両方を認めている。
だから、総合的に考えると、「ごく最近の歩みについては潔白で正しい、原罪と過去の罪については念入りに生贄も捧げているから(ヨブは自分の息子の思いの罪についても生贄を捧げるほど)、当然赦されているので私は潔白である」というのがヨブの主張の全体像のように思えるが、どうだろうか。
要は、「私は潔白なのだから、こんなひどい目に遭う筋合いはない!」ということなのだろう。
これは無理もないことであるが、ヨブ自身満身創痍のため冷静な判断が出来ず、主張が支離滅裂としている部分があって、全体像がわかりづらい印象を受ける。

議論が平行線をたどる中、友人の最後に登場するのがエリフである。
エリフの主張のほとんどは、友人の主張の焼き直しの印象である。
エリフもまた因果応報を主張する(34:11、25)。
しかし、我々は、一章、二章の天上の舞台裏を知っている。
すなわち、ヨブの災難は困難があっても神を呪わないかどうかのテストである。
つまり、災難の原因はヨブの罪にあるのではなく、信仰の訓練のためである。
訓練というにはあまりに過酷ではあるが。
それゆえ、エリフの主張は、因果応報を強調することについては誤っているように思えるが、彼の功績は、ヨブが求めた真の仲介人であるイエスキリストの存在を認めて暗にヨブを慰め(33:23、24)、中途半端な訴えに神は耳を貸さないといって(35:13)、つぶやかず神の御前に出ろと促し、人間界のみならず自然界全体に働く神を、他の三人の友人より詳しく提示することによって(36:27~37章)、ヨブの目を自然界全体へと向けさせたことにあるのではないだろうか。  
しかし本当のところは、神はエリフの主張についての正否は沈黙しているのでわからない(42:7)。
それはともかく、エリフの主張の後、神御自身が顕現されているので、エリフが仲介人として一定の役割を果たしたのは間違いないだろう。

そして、ついに、神ご自身がヨブの嵐のように荒れ狂った心の中に現れる(38章)。
議論したいというヨブの思いに応えてくださったようである。
また、ヨブ自身も、エリフの促しで、つぶやかず本気で神に心をむけたからでもあろう。

神の主張は以下の二点のように思われる。
まず、「なぜ」事が起こるのかではなく、「だれが」事を行うのかと繰り返し神が仰られるのは注目すべきである(38、39章)。
すなわち、物事は神が起点となってすべてが始まると仰っているのである。
言い換えると、神がすべての根本原因である、と仰るのである。
そもそもヨブの災難は、神が悪魔に話しかけたから始まったのである(1:7)。
神が悪魔に話しかけなければその後の展開はなかった。
それに対して、善行には必ず良い報いが、悪行には必ず悪い報いがあるという因果応報思想は、我々の行いをすべての起点とする考え方である。
この考えは、ある程度の因果関係は説明できても、自然界すべての事象を説明しようとしたとき、難しくなってくる。
例えば、神は、理由なく荒野にも雨を降らせて満ち足らせ(38:26、27)、理由なく人に知恵と悟りを与え(38:36)、理由なく烏の子に餌を備え(38:41)、理由なくだちょうに知恵を忘れさせ(39:17)るのである。
荒野は、何か良い行いをしたから雨の恵みに預かったわけではない。
烏は、善行によって餌の恵みに預かったのではない。
だちょうは、悪行によって知恵を失う罰を受けたのではない。
神がとにかくそのようになさりたかったからそのようになったのであって、彼らの行いによるのではない。
改めて言うまでもないが、キリスト教で、行いによらず与えられるものを「恵み」、「恩寵」などと言う。
このように、全ての根本原因は神にあるのであって我々の行いが起点となるのではない。

主張の二点目は、災難の原因を知りたいと神に訴えるのはまだ良いとしても、それに応えるも応えないも神にその自由があるということである。
神はご自身の自由を説明なさるのに、カバとワニをヨブに提示する(40、41章)。
自然界でカバとワニは最強の生物である。
彼らは自分の思うがままにふるまい彼らをとがめる者などいない。最強だからである。
ましてやカバやワニよりはるかに強い神が、唯一自分の思うがままにふるまえるのは言うまでもない。
すなわち、ヨブの問いに答えるも答えないも神の自由なのである。
ヨブを訓練するもしないも神の思うがままであり、非力な人間はそれを止めることはできない。
神が事を起こそうと思われたら、誰にも止められないのである。

ヨブは、ついに、災難の原因が信仰の訓練である(1章、2章)という天上の舞台裏を教えてはもらえなかったが、神の二つの主張(神がすべての根本原因であって、我々の善行、悪行が根本原因ではないこと、その根本原因を教えてくれと願う自由はあっても神がそれに答えてくださるとは限らないこと)を受け入れ安んじた。
実は、神の絶対的自由についてはヨブ自身気づいてはいたが(9:12、12:14、23:13)、神から直接諭されたことによって完全に受け入れたと思われる。
さらにヨブは、「災難の原因を知ることは出来ずとも、すべてをご存知の神が現れ、今、私と共にいて下さっている。それで十分ではないか。」と悟ったのではないだろうか。
ヨブは、神の答えを求めたが、神が答えであると悟ったのである。

神は、ヨブの財産を二倍にし、長寿を増し加える祝福によってヨブに応えられた。




※では、神は、なぜヨブの信仰を訓練しようと思われたのか。
 これについては別の機会にお話させていただければ、と思う。
 実は、ヨブ記一章一節に答えがあるというのが筆者の考えである。