聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

親譲りの信仰と独立信仰

~「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
彼らは答えて言った。
「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人人は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」
イエスは、彼らに言われた。
「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
ペテロが答えて言った。
「神のキリストです。」
(ルカ9:18~20)

私が信仰に入ったのは多分に母からの影響が強い。
母の熱心な伝道により、私もイエス様を信じるようになったのである。
母はいつも、「何か困ったことがあったら、イエス様にお願いしなさい。」と繰り返し私に言っていた。
母は、家で探し物をするときにもイエス様に祈りながら探しているような人である。
だから、私も時折、困りごとがあるとイエス様にお願いしていたことを憶えている。
そうして随分経ってから洗礼を受けた。
洗礼を受けてからしばらく経って、イエス様が救い主というのは、第一義的には、罪と死からの救い主という意味だと知った。
すなわち、過去の罪を帳消しにし、今日、律法(愛)に逆らう性質(Ⅰヨハ3:4)を取り除き、将来、ゲヘナ(第二の死)から救ってくださる方、という意味である。
そのようなことを教会から教えていただき、信仰を新たにした。
それまでは、日常の困難からの救い主という第二義的意味で信じていたのである。
母からの影響を受けていたからである。
すなわち、親譲りの信仰だったのである。
(なお、母はゲヘナからの救い主という意味でも私に伝道していた。)

今日においても、イエス様の捉え方は、案外、一人一人違うのではないだろうか。
もちろん、教会が伝えているように罪と死からの救い主と信じてはいるが、体感としては、別のお方として捉えている人もいるのではないだろうか。
わたしの母は、困難からの救い主として信じていたし、病気が癒された人は、癒し主として主に信じているだろうし、上記の聖句によれば、当時は、バプテスマのヨハネのように悔い改めをせまる方、と捉えている人もいたし、マタイ福音書では、エレミヤのように悲しみ憂える預言者、と捉えている人もいた。

だからかも知れないが、イエス様は仰るのである。
「あなたはわたしをだれだと言いますか。」。
もっと言えば、以下のようにイエス様は尋ねておられると思われる。
「教会が、牧師が、教団が、先輩が、両親が、友人がなんと言っているかはいい、まわりがなんと言っているかはいい、あなたは私をだれだと言いますか。」。
ここでは、正直に答えることが求められているように思う。

ある先生が言っていた。
ヤコブは、ベテルで初めて直接神と交わり、親譲りの信仰から独立信仰へと一歩を踏み出した、と(創28章)。
それまでは、父イサク、母リベカ、祖父アブラハムから伝え聞いていた神を信じていたが、ベテルからは、自分が直接見た神を信じたのだ。
同様に、すべての人が、自分で直接聖書を読み、直接イエス様を体験し、そこから読み取ったイエス様を表明し、教会譲り、他人譲りの信仰とは別に、独立信仰を確立しなければならないように思う。
「確かに、教会は、イエスを罪と死からの救い主と伝えているが、また、私もそのように信じてはいるが、実のところ、私自身が聖書を読んで思うイエス様はどんなお方だろう。私が体験したイエス様はどんなお方だっただろう。」と考え、結論づける信仰である。
独りよがりの信仰になりすぎないために、聖書と照らし合わせ、兄弟姉妹と分かち合いながら、よく吟味すべきだとは思うが。

なお、私の信仰を振り返ると、上記のように、まずは母譲りの信仰で「日常の困難からの救い主」として信じ、それから、教会が伝えた「罪と死からの救い主」を精一杯信じ、今現在の本音を言えば、体験を踏まえると「私と共に歩んでくださる方」と信じ、直接聖書を読んだ印象としては「高ぶる者には裁き主として、弱者やへりくだる者には救い主として振る舞うお方」として信じている。
しかし、やはり、理想は、教会が伝える「私を罪と死から救ってくださるお方」、すなわち、救いの第一義意味として心から信じることのように思われる。
それはペテロの信仰告白と一致する。

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
「神のキリストです。」
ペテロの告白は理想である。
わたしも心から、神のキリストです、と告白できるようでありたい。

※ペテロがここで「キリスト」を、本当に「罪と死からの救い主」という意味で用いた
 かどうかははっきりしないが(マタイ16:17)。