聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

メフィボシェテの恵み

<恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。(Ⅱサム9:7)>

イスラエル全土をおおよそ制圧したダビデは(Ⅱサム8:15)、気持ちに余裕ができたからか、ヨナタンとの契約(Ⅰサム20:15)を思い起こし、サウルの家の者を祝福したいと考えた。
<恵みを施したい>と、この章で実に三度も繰り返して言う(1、3、7節)。
サウル家は、ダビデを散々苦しめたのにも関わらずである。
すると、サウル家唯一の生き残りではないが、サウルの子、ヨナタンの子、メフィボシェテが見つかった。
サウル王の孫でありながら、今では、ロ・デバル(牧場がない、の意)の地にひっそりと住んでいて、しかも足なえであった(3節)。
ダビデ王は彼を呼びよせ、冒頭の聖句により、彼を祝福しようとした。
メフィボシェテの何かによるのではない。
ダビデの友、ヨナタンの故にである。

思えば、私はこのメフィボシェテのような存在ではないだろうか。
メフィボシェテが、ダビデの敵、サウル家の者であったように、この私は、生まれつき神の怒りの元にある神の敵、きつい言い方をするなら悪魔の家の者であった。
悪魔ほどには、神の怒りを買ってはいないだろうが、悪魔一家としてこの世に生を受けた者である。
しかし、ダビデが、ヨナタンのゆえにメフィボシェテを祝福したように、神はイエスキリストゆえに、信じる私を祝福してくださるのである。
しかも、ダビデが三度繰り返して恵みを施したいと言ったように、神も、繰り返し繰り返しクリスチャンである私を祝福したいと考えてくださるのだ。
神は裁き主であるばかりではない。
恵み主でもある。
だから、<恐れることはない>。

メフィボシェテは、牧場のないロ・デバルの地から救われ、<王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすること(11節)>を赦され、<エルサレムに住(13節)>んだ。
この私も、デビル(悪魔)の支配から救われ、荒れ果てた牧場のない心が潤され、神の息子として神と食事を楽しみ、エルサレム(天の御国)に住むことを赦された者である。
神の食卓に並ぶものは、霊のいのち、真のいのち、永遠のいのちを与える聖書の御言葉。
これらを食して私は命を取り戻すのだ。
また、こういう言い方もできる。
食卓に並ぶものは、目に見える農産物以上に、御霊の実である、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。
イエスキリストにつながる枝である私(ヨハ15:5)は、これらを心に実らせ、これを味わう。
依然として、信仰の更なる歩みに踏み出せない、<両足が共になえて(13節)>いるような者であったとしても。

※サウル家は、ダビデによって滅ぼしつくされても仕方がないほどにダビデを苦しめたが(Ⅰサム16~Ⅱサム3章)、ダビデは、親友ヨナタンとの契約を守ろうと、悪に悪をもってでなく、善を返そうとした。
私も、かつては、神を悩ませ続けた存在で、今もなお、神を悲しませていることがしばしばあるが、ただただイエスキリストによって成就した新しい契約(エレ31:31~34等。)ゆえに、その契約を守ろうと、神は、私を祝福し続けられる。
私の何かによるのではない。
イエスキリストの働きゆえである。
これを福音と言わずしてなんというのか。
なお、祝福を受ける上で私がなすべき唯一のことは、メフィボシェテが<礼をし(8節)>たように、ただ、感謝して手を差し出すことである。
もし、メフィボシェテが、「この私は腐ってもサウル王の孫、敵の施しなど受けん。」などと言ってプライドを優先していたら、この恵みから落ちてしまっていただろう。
だから、私も神への対抗意識など捨てて、ただただ礼をすべきなのである。