聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

エフタの娘

<エフタは主に誓願を立てて言った。
「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出てくる、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」(士師11:30、31)。>

エフタの説得(15~27節)を聞き入れないアモン人といよいよ戦いを交えることになったエフタは、その戦の直前に、上記の聖句により誓願の祈りをし、勝利を神に願った。
願いは神に聞かれ、戦に勝利したが、代わりに、迎えに出てきた自分の娘を捧げなくてはならなくなった。

読んでいて辛くなる聖書箇所である。
エフタが軽率に祈ったがゆえに、自分の<ひとり子(11:34)>である娘を捧げなくてはならなくなった。
ここに<全焼のいけにえ>とあるが、いくつかの解説書が言っているように、実際に火に捧げたのではないだろう。
モーセ律法では、このような人身御供を禁じている。
<また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。~(レビ18:21)>。
おそらく、レビ記27章2~8節の規定に従い、娘のいのちを買戻し、生涯、処女のまま独身を守らせたという解釈が一番納得できるものである。
しかし、火あぶりにならなかったとはいえ、自らの意に反して生涯を独身で過ごすとは、どんなに辛かったことだろう。

難解なのは、直前の<主の霊がエフタの上に下ったとき、~(11:29)>、である。
ここから、エフタが聖霊を受けたことは明らかであるが、にも関わらず、冒頭の軽率な祈りに及んでいる。
なぜ、自分の娘が迎えに出てくる可能性を考慮しなかったのだろう。
やはり聖霊を受けるだけでは不十分で、聖霊に満たされないといけないということなのだろうか。
よくわからない箇所である。

エフタは、自ら望んだのではないがひとり子を捧げ、娘も泣く泣く献身を受けいれた。
ギルアデ人は始め、エフタを遊女の子と言って追い出したが(2節)、後に悔い改め、エフタに助けを求めた(8、10節)。
故に、エフタは群れの先頭に立って戦い、結果的には、ひとり娘を犠牲にしてまでギルアデ人をアモン人から救ったことになる。
エフタの勝手な誓願ではあったが、ギルアデ人は申し訳ない気持ちと感謝の気持ちでいっぱいだっただろう。
この後も、反旗を翻すことなくエフタにつき従い、エフライムとの戦いで、共に勝利を収めている(士師12章)。

エフタの娘は、イエスの十字架の雛型のように思える。