聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

やもめとエリヤ

<~かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。(Ⅰ列王17:16)>

サレプタのやもめは、餓死寸前に、預言者エリヤに出会う。
やもめは、自分と息子のために最後の食事を作ろうとするが、エリヤは驚くべきことに、そのやもめの事情を知りながら、<まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。(Ⅰ列王17:13)>と言う。
言い方は悪いが、餓死寸前のやもめの食料を奪い、エリヤにパンを作れというのだ。
しかし、さらに驚くべきことは、やもめは<行って、エリヤのことばのとおりにした(Ⅰ列王17:15)>のである。
すなわち、自宅のかめの中の一握りの粉と壺の少量の油でパン菓子を作り、エリヤに差し出したのだ。
すると、冒頭の聖句にあるように、<かめの粉は尽きず、つぼの油はなくなら>ず、その後、大量のパンに恵まれ、生きのびることが出来た。
(小麦粉と油を混ぜて焼いたものがパンになる。レビ記2章。)

この出来事は、イエスキリストの4千人の給食を彷彿とさせる。
イエスは、<三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていない(マタ15:32)>餓死が近づく群衆に、食料を集めさせた。
すると七つのパンと小さい魚が集まるのだが、イエスはそれを大いに増やされ、群衆を養った。

すなわち、わずかではあってもそのすべてを神の人に捧げると、神の人(エリヤ、イエス様)は、それを大量に増やしてくださるお方なのである。
秘訣は、多かろうが少なかろうが、すべてを捧げるということである。

結果、エリヤの箇所ではやもめの息子が、給食の箇所では4千人が、何もしていないのに、大量のパンの恵みに預かった。
その背後に、やもめの奉献が、群衆の誰かの奉献があったからである。
なけなしの食糧をすべて差し出すとは、死を意味する。
すなわち、やもめも、群衆の誰かも、自分の命を差し出したようなものだ。
しかし、その行いが、周りを生かすこととなった。
ここにイエスキリストの十字架が見える。

この私は、やもめの息子であり、4千人の群衆のような者である。
(霊的)餓死を目前にしながら、無力で途方に暮れている者である。
しかし、(霊的)パンを、何もせずとも惜しみなく与えられた存在だということだ。
その背後には、全食糧を捧げたやもめや群衆の誰かが、そしていのちを捧げられたイエスキリストがいる。
まずは、このことに感謝し、この恵みを受け取り、養われ、成長したい。
十分に養われたなら、捧げる側へと意識が向くだろう。
そうして、受け取る側から差し出す側へと実際に変えられるなら、それはもっと神に喜ばれることである。
聖書にこう書いてある。
<~受けるよりも与えるほうが幸いである~(使徒20:35)>。

サレプタのやもめはイエスキリストの型、エリヤは天の父の型、やもめの息子は私たち救われる者の型と言える。
四千人の給食では、少量ではあるがすべての食糧を差し出した者がイエス様の型、ここではイエス様が天の父の型、残りの群衆が私たち救われる者の型と言える。

究極的には、イエスキリストが十字架上でいのちを捧げ、天の父がそのいのち(聖霊)を無限に増やし、信じる者すべてがそれを受け取った。
私は何もしていないのに、イエスキリストがいのちを捧げたおかげで、永遠のいのち(聖霊)が与えられ、ただ信仰によりそれを受け取り、新しく生まれた。

赤子は何も出来ず、親の愛をただ受け取り、養われる存在である。
親の愛に包まれ、無邪気に、すくすくと成長するものである。
大人になれば、与える側になろう。