聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

承認欲求

以前、教会で説教の御用をさせていただいたとき、このように言われたことがある。
「すごい説教だったね。感動したよ!」
これを聞いて私の承認欲求は満たされ、私の肉が大喜びしたのをよく憶えている。
反面、私の霊は悲しんでいたように思う。

このような話がある。
「伝道熱心な女性がいるのだが、実は家庭内に問題を抱えていて、ご主人とはトラブルが絶えず、お子さんともうまくいっていない。
その劣等感を解消するために、信仰の場で熱心に活動しているように思う。
本当にイエスキリストの素晴らしさを伝えようとは感じられない。
彼女がやっていることは、正当な場で正当な評価を得られないことを、信仰の場で得ようとする代償機制に基づくものではないか。」。

以上のような内容である。
私はこれを聞いて他人事とは思えなかった。
私も、彼女と同じような動機で教会生活を過ごしていたからである。
私自身も、家族内において、十分に評価されているとはいえなかった。
私の兄弟の方が、両親からはるかに評価されていた。
それは私自身に問題があって、長男でありながら父母を助けることに乏しく、家族の一員として果たすべき責任を怠り、好き勝手に振る舞いすぎていたからである。
だから弁解の余地はないのであるが、結果、家族関係において承認欲求が満たされぬままになってしまった。
その劣等感を、ときには学校の人間関係で、ときには会社の人間関係で満たそうと、優秀な自分を演じたものだ。
すなわち、代償機制に基づいて行動したのである。
だから、「あなたは優秀だよね。」と言われると、表情には出さないが、腹の底では喜び狂っていたのである。

そして、その代償機制は、教会生活においても現れた。
具体的には、説教の御用において最大に現れていた。
これ以上ないという程に準備を重ね、原稿は丸暗記し、最高の説教を目指したのだ。
手前味噌ではあるが、実際良い説教をしていたとは思う。
しかし、動機においては問題ありで、イエスキリストの素晴らしさを伝えようというより、聖書の解き明かしによって自分の素晴らしさを伝えようとしていたのである。
伝道活動を通して認められようとしていた、あの女性と同じである。

ところが、時間が経つと、この承認欲求に自分自身が疲れてくるもので、今では、動機はある程度健全になった。
(承認欲求は自然な感情であり、すべてが悪いとは思わない。)。
イエスキリストを伝えようとする動機は、今現在は責任感が強くなった。
「イエス様を伝えなければ。これ以上、イエス様を裏切れない。」という気持ちである。
繰り返しになるが、以前は、教会活動を通して認められたい、の一心だったのである。(今でも多少残ってはいるが。)。

大人になる秘訣は、第一は、これはもう単純にクリスチャンとしての年月ではないか。
ただ、待てばよいのである。
クリスチャンとしての年月を重ねれば、いやが応でもイエスの愛を体験し、イエスの忍耐を体験し、兄弟姉妹からは我慢強く見守られ、それにより、ある程度、承認欲求が満たされ、新しい動機が芽生えてくるものだと思う。
また、先に申したように、年月を経ると、承認欲求に自分が疲れて薄れるからでもある。

私に関して言えば、洗礼を受けてからも、表面上は優れた自分を演じながらも、内実においては、依然として家族内で振る舞っているようなだらしのない自分のままであり、しかし、そのような自分にイエス様の忍耐と愛を感じ取り、また、ついには教会内においても、優れた自分を演じきれなくなり、だらしのない自分を見せたくないから人を寄せつけなくなり、長くを過ごしたが、そのような自分を兄弟姉妹たちが静かに見守ってくれたおかげで、私の承認欲求は満たされていったのである。
月並みな言い方ではあるが、「頑張らなくても受け入れてくれた」ことを身を持って体験したのである。
そうして、自分を認めてもらうためでなく、イエス様のため、教会のために何かをしようという気持ちが芽生えていったのである。
繰り返しになるが、承認欲求そのものは、自然な感情と思われる。
どんな欲でもそうであるが、歪むと厄介なことになるのではないか。

今後も、あの女性のような、私のような、教会活動を通じて他の共同体では満たせなかった承認欲求を満たそうとする頑張り屋の兄弟姉妹が現れるかもしれないが、周りはただただ温かく見守ることである。
症状が深刻な人ほど、周囲の粘り強い忍耐が必要と思われる。

冒頭の話に再び戻るが、私が説教の御用をした際、なんと言われたいのか。
「先生、イエス様って凄い方なんですね。」
このひと言に尽きる。このとき、私の霊は喜ぶだろう。
反面、私の肉は、こう言って悲しむだろう。
「僕の説教が凄いって言ってよ。」

承認欲求も程々に、私はイエスキリストを伝える者でありたい。