聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

悪霊追い出しの思い出

ある年末、恒例のクリスマスコンサートが行われる際、運営スタッフとして関わることとなった。
市民ホールを貸し切って行うのだが、設営等の準備スタッフが必要だったのである。
本番は夕方から始まるが、スタッフは午前中から集まって準備に取り掛かっていた。
午前中の準備が一段落してお昼休憩となったとき、昼食を済ませたあともまだ時間があったので、市民ホールの周囲を散策することにした。
そのとき、何となくホールをきよめようと思い立ち、市民ホールをグルっと周って、悪霊追い出しをすることにした。
本当に何となく、ふと思ったのである。
そうして、「イエスの御名によって命ずる。この市民ホールに取りついている悪霊よ、出ていけ。」と、繰り返し言いながら、周囲をグルっと周った。
何周かまわったところで時間が来たので切り上げ、午後の準備に取り掛かった。
やがて、コンサートが始まり、追い出しが効いたのかどうかはさっぱりわからないが、特にトラブルもないまま、無事終えることができた。
帰宅して、いつものように就寝し、翌朝を迎えると、私の唇、のど、舌がパンパンに腫れあがっていた。
真冬に外をグルグル周ったから、風邪でもひいたのかと思ったが、熱は平熱で、咳一つ出ず、体調はすこぶる良好であった。
何か、変な物を食べた記憶もない。
にもかかわらず、口周りがパンパンに腫れあがっていたのである。

その時思ったのは、「これは悪霊の御礼参りではないだろうか。」ということであった。(もちろん、ただの偶然ということもありうるが。)
そうして、以前、ある姉妹からいただいたアドバイスを思い起こした。
悪霊追い出しはできるだけ二人一組で行うこと、追い出す際は、必ずイエスの血潮によるカバリングを行ってから取り掛かること、である。
「イエスの血潮によって私の全身を覆います。」と宣言してからとりかかるあれである。
これは、聖霊派の実践的なクリスチャンの間では常識のようである。
私は両方とも忘れていた。
とりわけ、イエスの血潮によるカバリングは、必須のように思われる。
聖書的根拠は、へブル9:19~22あたりだろうか。
とにかく、イエスの血潮で自分をきよめてからでないと危険なようである。
わたしは、身を持ってそれを体験した。
わたしの行動は、あまりに軽率であった。
悪霊は、おそるるに足りないが、みくびってもいけない。
一番大事なのは、愛の動機ですべてを行うことと思うが、この時はそれも欠けていて、軽はずみに取り掛かってしまったように思う。
コンサートが本当に祝福されるようにと、愛の動機で追い出しをしたわけではなかった。
以後、二人一組はなかなか難しいが、カバリングは必ず行ってから、そして何より、愛の動機でもって追い出しに取り掛かるようにしている。

<いっさいのことを愛をもって行いなさい(Ⅰコリ16:14)。>。