聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

神の臨在を体験したときのこと

教会でホームレス伝道をしていた時の話である。
私たちは、ある河川敷沿いに居を構える複数のホームレスの方に伝道していた。
そこで、数名の方と親しくなったのだが、ある時、その中のお一人が行方不明になった。
その方は、上下紺色の作業着をよく着ていて、川の上流に住んでおられる方だった。
私たちが訪ねる度、いつも具合が悪そうだったので、病院に行きましょうと、繰り返しお願いしていた方でもあった。
はじめは、私たちがあまりにしつこくお願いするものだから、煙たくなって別のところに引っ越したのだろう、などと話していたが、行方不明になって数週間が過ぎたころ、あろうことか、ホームレスの方々からの情報で、その方の住まいの近くで水死体が上がったと聞かされた。
しかも、その遺体は上下紺色の作業着を着ていたというのである。
私は頭が真っ白になった。
もしかすると、病気を苦にして水に飛び込んだのかもしれない、と思ったからである。
そこで、すぐにその方を訪ねたが、やはりというか、住まいはもぬけの殻であった。
私はその場で呆然と立ち尽くし、しばらくそこから動けなかった。
どうしても納得できなかったので、夜にもう一度訪ねてみよう、となった。
夜、辺りは真っ暗になって、足元もおぼつかない状況だったが、何度も訪れていたので、道は覚えていた。
その方の住まいに行くには、河川敷内の野球場を突っ切らなければならないのであるが、その野球場を横切っていたときである。
これは、理屈では説明できないのであるが、その球場全体に神がおられたのである。
球場の上空から私たちを包み込むように存在しておられたのを強く体感したのである。
私は、そのときは、正直、そのホームレスの方のことで頭が一杯だったので、ぼんやりと「あ、神がおられる。」と感じていただけであった。
そうして、これまたぼんやりと「あなたは、こんな寂しいところにおられるのですね。」とも思っていた。
そうして、その方のベニヤ板の家に着いたが、名前を呼んでもやはり返事はなかった。
遺体は、近くの警察署に運ばれたと聞いていたので、その足でそのまま警察に向かった。
警察に事情を説明すると、亡くなった方の写真を見せて下さるということで、奥からファイルを持ってきてくださった。
なんともいえない緊張感が走ったが、ファイルを開いて写真を見ると、結論から言えば、写真の方は全くの別人であった。
私はその瞬間、安堵感が身体全体に行き渡るのを感じた。
本来、人が一人実際に亡くなっているので、安堵感はまずいのであるが、とにかく、その方ではなかったので安心した。
教会への帰り道、あの方は結局どこにいるのだろう、と皆で話しながら、緊張が解かれて気持ちに余裕ができたからか、私はさっきの神体験を思い返していた。
なんだか温かく包み込まれたのを思い出し、よくエベレストの頂上にたどり着いた登山家が口にする神体験とはこういうことなのか、いや、しかしそれとこれとでは状況がまるで違うしな、などとぼんやり考えていた。
あるいは、ヤコブはベテルで神と直接相まみえるのであるが、ヤコブもこんな感じだったのだろうか、いや、これも状況が異なるしな、などとも考えていた。
もしかすると、この自己中心極まりない私が、めずらしく人のために働いているのを御覧になって、励ましからご自分を現してくださったのかもしれない。
言葉では本当に説明できないのであるが、とにかくいる、と深く感じたのである。
(気のせいと言われたらそれまでであるが。)

翌週の礼拝後、再々度その方を訪ねると、なんとその方は無事に戻ってきていた。
「皆で心配していたんですよ。」と伝えると、「すみません。空き缶集めに遠くまで出掛けていて、中々戻ってこられなかったんです。」と事情を説明してくださった。
(ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、ホームレスの生計の中心は、空き缶を集めてそれを売ることだそうです。)

神はどこにでもおられる方であるが、私には寂しい河川敷でご自分を現してくださった。
私のような、普段は自己中心の極みのような男でも、人のため、とりわけ弱者のために働くなら、神はどこであろうとご自分を現してくださるのだろう。
私は、荘厳な礼拝堂で神に出会えたのではなかった。