聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

イエスキリストを体験したときのこと

駅前で路傍伝道をしていたときのことである。
私たちは、駅前のロータリーで数人で散らばって、トラクト配りをしていた。
そのとき、片手にワンカップの日本酒を持った初老の方が私に話しかけてきた。
身なりからすると、土木系の日雇い労働者といった感じだったが、お酒が入って上機嫌になったのか、私に話しかけてきたのである。
おそらく、駅前のベンチでお酒を飲みながらくつろいでいて、私たちが何をしているのか興味を持ったのだろう。
私は、伝道も含めてしばらくとりとめのない話をしていたが、遠くで見ていた、同じく伝道していたある姉妹が、私たちに近づいてきた。
私が長く話しているものだから、救いの見込みのある方と判断して、フォローにやってきたのである。
ところが、その初老の方は、その姉妹にはそっけない態度を取った。
熱心に伝道していたその姉妹は、その態度に腹が立ったのか、その場を離れようとしたとき、私の耳元でこうささやいた。
「この人、救われる見込みないわよ。」
そうして、私たちから離れて行った。

これを聞いた初老の方は激高し、私にその怒りをぶつけてきた。
延々、怒鳴り散らされ、私はどうしてよいかわからず、途方にくれていた。
そのときである。
イエスキリストが、聖霊(の強い臨在)として私に下ったのである。
私にしてみれば、理不尽な怒りをぶつけられて、私の方こそ怒ってもおかしくなかったが、そのような気持ちにはならず、憐れみの気持ちが体全体に充満していったのである。
駅前のロータリーだから、沢山の人が見ていたと思うが、恥ずかしいという気持ちにもまったくならず、また、視線もまったく気にならず、ただただ、その初老の方を憐れむ気持ちで一杯になったのである。
そのとき、「あー、イエス様がやってきた。」となんとなく、感じていた。
「あー、これがイエス様の心なのか。」と私は自分が体験していながら、他人事のように感動していた。
やがて、その方はひとしきり私を罵倒して気が済んだのか、自分から離れていき、どこかへ行ってしまった。
そのきっかけとなった一言を言ったその姉妹も、後でわたしに謝罪をするということもまったくなかった。
普段であれば、その姉妹に恨み言の一つでも言っておかしくなかったが、そういった気持ちにもまったくならなかった。

その後も、私の中では、しばらくその憐れみの気持ちで満たされており、伝道活動が終わり、教会へ戻った後も、心には圧倒的な平安があり、その後、帰宅前後までそれは続き、そうして、その平安はスーッと私から離れて行ったのである。
聖霊は、しばしば風に例えられるが、まさに、私のところに風のようにやって来て、風のように私から離れていったのである。
私はイエスキリストの心をごく短時間ではあったが、身を持って体験した。
イエス様はあのような心で日常を過ごされているのかと思うと、なんともうらやましくなった。
雑念がみじんもなく、すっきりとしていた。
ねたみもそねみもまったくなかった。

聖霊はまた、しばしばぶどう酒に例えられる。
私は安酒しか飲んだことがないのでわからないが、聞くところによると、高級なワインや日本酒というのは、すっきりしていて悪酔いしないという(もちろん、適量の飲酒についてだろうが)。
安酒は本当に悪酔いしてしまうことがあり、具合が悪くなることがある。
おそらく、私は最高級の聖霊のぶどう酒を飲んだのだろう。
貴重な経験であった。
そして、あの初老の方は、今、何をしているのだろう。
救われるのを願ってやまない。


ー注ー
当時は、私自身の認識も甘かったからか、駅前のロータリーという公共の場所でありながら、許可をもらわずに伝道していた。
多くの方がご存知のことと思うが、許可を取るべきかどうかは、グレーな領域ではあるが、本来は、市役所と警察に行って、使用許可をもらわなければならない。
その際は、警察で使用料として数千円を支払うことになる(収入印紙代)。