聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

聖霊体験2(賛美集会)

あるとき、教会から車の運転を任されたことがあった。
いつものように主日礼拝を守り、さあ、そろそろ家に帰ろうかというときに、ある教会員に呼び止められた。
なんでも、夕方から姉妹教会で青年特別賛美集会が開かれるが、運転手の都合が悪くなったので、代わりに、現場まで中高生の教会員を送り届けてくれないかというものだった。
快諾したのだが、一つだけ問題があった。
ワゴン車で大人数乗せて走るのだが、その車にはカーナビがなかったのである。
私は大の方向音痴で、ナビがないと必ずといっていいほど道に迷う者である。
以前、仕事で社用車を使っての外回りを経験したが、その車にはナビが積んであったのでどれほど助けられたかわからないほどであった。
嘆いても仕方がないので出発したが、渡されたのは、手書きの住所と簡単な地図のみ。
こういう場合、本来は、助手席の者がナビをするのが暗黙のルールであるが、困ったことに、助手席は運転経験のない若い者で期待は出来ず、実質、私一人で判断せざるを得ない状況だった。(当時はスマホが出る前で、携帯のナビもない時代。)
都内のA地点からB地点への移動でなかなかの距離があったが、都内の道をご存知の方ならお分かりいただけるだろう、都内の道に精通していない方向音痴が、これを事前下見なしで、ぶっつけ本番で手書きの住所だけを頼りに辿り着くのは、至難の業である。
助手席の者に、地図を元に案内してもらうのも期待できないのである。
あまり迷うなら集会の開始時間には間に合わないだろう。
普段ならかなり混乱する状況であるが、そのときは不思議と落ち着いていた。
遅れたらしょうがないか、と開き直るでもなく、なんとかなるだろうという楽観的な気持ちでもなく、とにかく、なんの雑念もなかったのである。
おそらく、聖霊様が強く私の心に働きかけて下さっていたのだろう。
教会を出発し、私はとにかく道路の青看板を頼りに運転を進めていった。
車内は若い者が多かったからか楽しい雰囲気であった。
私も助手席の若い者と楽しく会話をしながら道中を進んでいった。
とにかく頼りは道路の青看板で、これに従いながら目的地に向かったのである。
ここからはうろ覚えなのだが、結論から言うと、なんと、一度も道を間違えることなく現場の教会に辿り着いた。
なんとなく運転していたら、ひょっこり目的地の教会が現れたのである。
現場近くになって迷うようなら、一時停止して、手書きの住所と地図をにらめっこして、場所の絞り込みをしようと考えていたが、その必要もなく着いてしまった。
ありえるだろうか。
一度も、手元の住所も地図も見ることなく、着いたのである。
とにかく、定刻よりも随分余裕を持って着くことが出来た。
中高生たちは、その姉妹教会の者たちと交わりの時間を沢山持てて楽しそうであった。
賛美集会を終えての帰り道も同様、迷うことなく教会に辿り着いた。

カーナビとは、カーナビゲーションの略語で、ナビゲーションという英語はへブル語のナービーから来ている。
ナービーとは預言者という意味である。
その車には、真の預言者である聖霊様が乗っていて、私を導いたのだろう。
私はその預言を聞くことはなかったが(霊的耳しいなのは、ただただ悲しいが)、私の霊がその預言に従って運転していたのだろう。
これ以上に力強い案内人が他にどこにいるだろうか。
神は、私を憐れんだ以上に、その賛美集会を楽しみにしていた中高生たちを愛したのだ。
もし、これが聖霊様の働きでないなら、ただただ不思議な出来事である。