聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

ヨセフの信仰と忍耐

<~その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタ1:20、21)>。

イエスの肉の父ヨセフは、イエスがまだマリヤの胎の中にいたときに受けた上記の預言を信じた。
<正しい人>であったとあるので決して常識知らずの人ではなかったことが分かる。
常識を踏まえる人物でありながら、マリヤが聖霊によって身ごもったという非常識的なことを信じたのである。
信仰は非常識的なことを信じるように求めることがある。
これは常識的、理性的な人ほど困難を覚えるものである。
しかし、ヨセフは信じたのである。
上記の預言の二つ目の内容は、<ご自分の民をその罪から救>う、すなわち、イエスが旧訳聖書で預言されていたメシヤであるということである。
なんと、ヨセフはこれも信じるのである。

ヨセフ家の中でのイエス様の存在はどうだったのだろうか。
聖書には書かれていないが、時にはヨセフの信仰が揺らぐこともあったのではないか。
一説によると、やはり当時、近隣では噂が立ったようである。
イエスの本当の父は誰なのだろうか、と。
下品な噂では、マリヤはローマ兵に乱暴されて子を宿した、それがあのイエスだというそういう内容もあったという。
もし、この噂がヨセフの耳に入ったとしたら、ヨセフはその都度苦しんだのではないか。
ヨセフも人の子である。
時には、「もしかしたらそうかもしれない。」と疑うこともあったのではないだろうか。
しかし、その都度、上記の預言、<その胎に宿っているものは聖霊によるのです>を思い起こし、信仰を新にしたのではないだろうか。
この戦いを生涯続けたとしても、不思議ではない。

二番目の預言、「イエスがメシヤである」についてもそうである。
聖書は、ヨセフがいつ天に召されたかを記していない。
すなわち、これについては神の領域で、私たちが知ることができない事柄である。
だから、イエス様の三十歳を過ぎてからの公生涯の偉大な働きを見たのか見なかったのかはわからない。
なので、ここからは完全に仮の話になるが、もし、ヨセフがイエス様の公生涯前に天に召されていたとするなら、冒頭の預言の成就を見ないまま地上生涯を終えたことになる。
すなわち、イエス様のメシヤとしての働きを見ないままで生涯を閉じたのである。
その場合のヨセフの信仰はどうだったのだろう。
イエスがヨセフの大工の仕事を手伝っていたというなら、父としてはどんな気持ちだったのだろうか。
わが息子は大工仕事は覚えているが、メシヤとしての働きをする兆候は一向に見られないな、などと思ったこともあったのではないか。
しかし、これについても、都度、御使いの預言、<この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です>を思い起こし、信仰を新にし続けたのではないだろうか。

私たちも同じである。
ヨセフはイエス様の初臨の働きを見たのか見なかったのかわからないが、私たちはイエス様の再臨の働きを見るのか見ないのかわからないのである。
私たちも堅く信じなければならない。
黙示録に描かれているイエス様の再臨の働きを。
今度は天地に火のバプテスマを起こすために来られるのである。
イエス様を信じる者は天に引き上げられ、そうでない者はそうでないところに行く。
このことを堅く心に留め、イエスを信じる者の天国の保証を感謝しつつ、残された地上生涯を精一杯歩みたいものである。