聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

恵みに生きるということ

イエス様に出会って、30年余りの月日が流れた。
その間、随分逆らったが、ようやく信じる決意をし、正式に受洗して17年程が経つ。
振り返ると、洗礼を受けたての頃は、良きにつけ悪きにつけ燃えていたように思う。
私の霊が燃えていたのか、私の肉が燃えていたのか定かではないが。
とにかく、熱心に礼拝を守り、教会奉仕をしていたものだった。
やがて完全献身を決意し、神学校に通い、卒業し、ある教会に寝泊りをしながら完全奉仕をしていた時期もあった。
ところが、この辺りで限界を感じ、燃え尽きはじめてしまい、その教会を去り、やがて礼拝をも休むようになってしまった。

今では、普通に社会人をしており、クリスチャンとしては、特別証しをする訳でもなく、会社の同僚に伝道するのでもなく、ただただ普通になってしまった。
私の肉的な夢は、メガチャーチを立ち上げ、そこの主任牧師になることだったが、それもどうでもよくなってしまった。
自分を慰める聖書解釈は、イスラエル民族で完全献身をするのは、原則レビ族の役割で、残りの11部族は、礼拝を守りながら普通に生活をすることだから(友人、知人に伝道などをしつつも)、私はその残りの11部族なのだろうということである。
とにかく、良くも悪くも落ち着いてしまったのである。

皮肉なもので、クリスチャンとしては平凡な毎日が続けば続くほど神の恵みが身に染みてわかるようになった。
<恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどま(ローマ6:1)>ろうといって悪意を持って特別悪に染まっている状態ではないから、真の恵みを体験している訳ではないのかもしれないが、かといって積極的に善を行っているわけでもないから、神からの特別報酬を得ているのでもない。
本当に燃え尽きてしまい、証をしよう、奉仕をしようという気持ちが空になってしまい、平凡になったのである。
今では、この聖書ブログで時折つぶやく程度になってしまった。

パウロが言っているように、何かの働きをして得られるのは報酬であって恵みではない(ローマ4:4)。
何の働きもしていない者がただで得られるのが恵みである。
今の私は、クリスチャンとしては特別な働きはしていないが、それでも健康が守られ、経済が守られ平穏に暮らしている。
だから、これこそパウロが言う神の恵みなのだろう、と思うようになった。
繰り返しになるが皮肉といえば皮肉である。
平凡な毎日を送れば送るほど神の恵みを実感できるのだから。
そして、悪に染まっていれば、最も神の恵みを体験できるのだから。

私の今後の人生がどう展開していくのか、自分でもわからない。
年齢的には、すでに折り返し地点を越え、残り時間も少なくなってきているが、そんな中、私が意識するのは、モーセの存在である。
モーセの公生涯は、80を超えてスタートした。
実に、神は、モーセを整えるのに80年の月日を費やしたのである。
聖書には様々な人が存在する。
20才程で働きに入ったエレミヤのような者もいる。
イエス様は30才。
神の計画は実に様々である。
私はほぼ燃え尽きてしまっているが、モーセのような者がいるのだから、私を再び用いてくださることがあるかもしれない。
もし、そのようなことがあるなら、そのときは、少しでも神と人とに喜ばれる働きをしたいと思う。


<最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。(Ⅰコリ15:46)>
<イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。~「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」(ヨハネ2:7~10)>