聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

無理なダイエット

<しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。
土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。
あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう(出エジ23:29、30)。>。

無理なダイエットの話をよく聞く。
一気に痩せようとして、極端な断食をしたり、過激な方法を取ることを言うそうである。
しかし、大概うまくいかずリバウンドし、以前よりもかえって太ってしまうという。
上記の聖句は、ある意味、無理なダイエットは危険だと言っているのではないだろうか。

それは以下の原理である。
ダイエット以前は、たくさん食べることがストレス発散であり日々の喜びであった。
しかし、ダイエットを始めたことにより、食べる喜びがなくなり、辛い日々が始まる。
確かに目に見えて痩せていくのであるが、ストレスもそれに比例して増してゆき、ついに我慢の限界から、反動でドカ食いをしてしまう日がやってくる。
そうしてリバウンドをしてしまう。
つまり、心から食べる喜びを追い出したのはよいが、それに変わる喜びを見いだせなかったため、心の空洞が荒れ果て、野の獣のような食欲が住みつき、その人をかえって害することになったのである。

聖書で、心は土地に例えられている。
イエス様は種まきのたとえ話の中で、種を神の御言葉に、土地を心に例えている。
また、山上の説教の冒頭の「こころの貧しい者はさいわいです。」の「貧しい」は、原語のギリシャ語では土地用語の「貧しい」が使われていると聞いたことがある。
この二つの聖書的根拠から、土地というのは霊的には人の心を指すとも捉えられる。
つまり、イスラエルの土地全体をひとの心全体と置き換えて聖書を読むことが聖書の霊的解釈の一つの方法なのである。
イスラエルの国土、すなわち人の心にはヒビ人、ペリジ人などの悪い者が住んでいる。
一刻も早く追い出したいのはやまやまだが、それにかわる善い人たちが住まないことには、野の獣が住んでしまい、かえって以前よりも荒れ果ててしまう。
だからヨシュア(イエス様)が先頭となって、少しづつ国土、すなわち心を占領していくのだ。
<徐々に>である。

暴飲暴食、その他もろもろの悪習慣に悩む人に伝えたいのは、あなたのその戦いは長い時間がかかる場合がある、ということである。
イエス様が<徐々に>追い払うからである。
弱い自分にみじめな気持ちになったかもしれない。
三歩進んで二歩下がる、二歩進んで三歩下がったと一喜一憂を繰り返したかもしれない。
少しもよくなっていないように思えて、嘆いたかもしれない。
しかし、それは、<徐々に>だからである。
劇的な変化もありうるが、原則、徐々になのである。
しつこい悪習慣について言えば、自分でも気づかぬほどにゆっくりとイエス様が取り扱われるからか、何も変化がないと感じてしまうのである。
だから、食べる喜びにまさる喜び(イエスキリスト)を見出し、それを心に据えるのに長く時間がかかり、それに耐えきれずに、再び、慣れ親しんだ暴飲暴食の習慣に戻ることがありうるのである。
そうして、<また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』~(ルカ5:39)>と言ってしまうことになる。

新約でも同様のことが語られている。
<汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
そこで、「出て来た自分の家に帰ろう。」と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。
そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。
邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。(マタ12:43~45)>。

これは、バビロン捕囚からの帰国後、偶像礼拝と悪習は全く跡を絶ったが、当時のユダヤ人たちがキリストを受け入れることをしなかったため、さらに大きな罪に陥って滅ぼされることを言っている。
同じように、悪習慣をきっぱり絶っても、しっかりとイエスキリスト(聖霊)に住んでもらわないと、逆戻りし、さらに悪くなってしまう。

私について言うなら、イエス様をしっかり心の中心に据えられないのは、私が望んでいない場合があるからである。
私のすべての領域がイエス様を歓迎するとは限らない。
私が、快楽とイエス様を天秤にかけて、快楽を選んでしまうのはイエス様を歓迎していないからである。
例えば、私自身、深酒には長く苦しんだが、最も危険なのは、一念発起、深酒をやめたあと、それにかわるストレス発散を見出せないときである。
深酒をやめるから、その効果はすぐに現れ、まず体調がよくなる。
それゆえ、元気になる。
ここまではよい。
しかし、その後、例えば、クリスチャンらしく、賛美したり、聖書を読んだり、伝道したりでしばらく過ごすのであるが、何か物足りなく、満たされないときがある。
すなわち、心からイエス様を喜んでいない自分に気づくのである。
そうすると、ふとしたときに、お酒を懐かしんで手を出し、しかも、幸か不幸か、肝機能は完全に回復しているので、大量に酒を飲み、はめを外し、ひどい翌朝を迎え、罪悪感でメンタルはズタズタになる。
こういう具合である。

ダビデはこう言っている。
<私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(詩編103:1)>。
これは、ダビデのすべての領域が聖なる御名をほめたたえていないことを示唆している。

私も同様である。
悪習慣を懐かしんでいる限り、私のすべての領域がイエス様を歓迎していないことを表明している。
しかし、今後も、イエス様は、私のすべてがイエス様を心から受け入れようと思うまで粘り強く私に働きかけて下さると信じる。
お酒とイエス様を天秤にかけ、イエス様を選び続けられると信じる。
実際、今現在、見捨てられずに粘り強く働きかけて下さっているおかげもあり、お酒をやめている状態である。
このようにして、少しづつ、イエス様が私の中を管理支配していくのだと思う。
しかし、生涯、いつ深酒してしまうのかという恐怖が完全に消えることはないだろう。
もし、今後、再びお酒を貪ることがあれば、イエス様は憂い、お怒りになられるだろうが、私としてはそれでも立ち上がり、お酒を今一度絶つ行動を取り続けるしかない。
悔い改めれば、七度の七十倍赦してくださる方と聖書に書いてある(ルカ17:4)。

今のイスラエルを見てみると、1948年に、およそ2000年ぶりにイスラエル国家が復興し、徐々にではあるがユダヤ人たちが帰還している。
しかし、他民族を完全に追い出してはいない。
アブラハムの時代から始まっていまだ道の途中なのである。
つまり、悪習慣を心から追い出すのも、長い闘いになることがある。
イエス様を喜ぶことが心全体を占めない限り、逆戻りの危険も続くことになる。

もちろん、劇的にやめられたなら、それはそれで素晴らしいことである。
それこそ、奇跡といっていいことなので、是非、教会で証しをしていただき、その経緯を話していただきたいと思う。
実際に悪習慣を劇的にやめられた証しをいくつか知っている。
私自身について言えば、完全に止められた悪習慣もあれば、上記の深酒のように戦いの途上のものもある。
イエス様と私の共同作業は続く。

<あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。(イザ46:4)>。