聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

献酌官長に優るイエスキリスト

<あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロにはなしてください。この家から私が出られるようにしてください。(創40:14)>

冤罪で牢屋に監禁されているヨセフは、後に収監されたエジプト王(パロ)の献酌官長と調理官長の付き人となり、彼らの夢の解き明かしを行った。
その際、ヨセフは、冒頭の言葉により、釈放を願い出る。
やがて献酌官長は釈放されたが、夢の解き明かしの恩と、<この家から出られるようにしてください。>というヨセフの願いをすっかり忘れてしまう。
二年の後、ようやくヨセフの願いを思い出し、王に訴え、ヨセフを釈放した。

一方、イエスと共に十字架上にある犯罪人は、<あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42)>と願い出るやいなや、イエスから<あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)>と言われ、二年の後ではなく、その日のうちに解放を約束された。
しかも、ヨセフは、冤罪(創39章)で罪がないにも関わらず、牢屋で刑罰を受けているが、犯罪人の方は、実際に死刑に当たる罪を犯し、十字架上で刑罰を受けている重罪人であるにも関わらずである。

罪のないヨセフは、解き明かしの施しにも関わらず、釈放まで二年の月日を要した。
王の仲介人が、愛に乏しい献酌官長だからである。
(もちろん、神の摂理の中で二年と定められた側面もあるが。)
しかし、死刑に当たる罪を犯した犯罪人は、何をせずとも、その日の解放(パラダイス)を約束された。
父なる神の仲介人が、全能のイエスキリストだからである。
ここに献酌官長にはるかに優るイエスキリストが見える。
御自身、激痛の最中にあってこれをなさるとは、驚くべきことである。

犯罪人は、罪責感からか、冤罪のヨセフのように<私が出られるようにしてください>とは言えず、せめて<私を思い出してください>と控えめに願い出たが、イエスキリストは、自らパラダイスを保証された。
犯罪人の、へりくだった心を見通されたのだろう。
私たちも、祈りの際、遠慮がちにしか祈れずとも、イエス様は、心にあるすべてをご覧になり、正しく応答してくださると信じよう。

さて、今後、もしわたしが自分の罪の刑罰に苦しむとき、あの犯罪人のようにへりくだるなら、イエスキリストは速やかに解放を約束してくださるだろう。
しかし、もし、もう一人の犯罪人のように、<イエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」(ルカ23:39)>と罵るようなら、解放の確約を逃してしまうことになる。
わたしはどちらを選ぶだろうか。

犯罪人は、始めはもう一人と共に、激痛の最中にあったからでもあろう、<イエスをののしっ(マタ27:44)>ていたが、やがてイエスがメシアであると悟り、へりくだった。そうしてパラダイスを約束された。
苦しみの最中にあると、つい悪口をついてしまうものだが、イエスキリストは最後の最後までわたしたちの悔い改めを待ってくださる。
そうして、悔い改めるやいなや、速やかにパラダイスを保証してくださる。

へりくだる者に注がれるイエスキリストの愛の深さ、最後の最後までわたしたちに寄り添う神の愛の深さよ。
この、へりくだる者の幸い、神の愛の深さは、聖書の至るところで証しされている。