聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

青草の上にすわらせる

ヨハネの福音書は、特に、五千人の給食を過越の食事と同一視しているように思える。
<さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。(ヨハ6:4)>。
この聖句は、五千人の給食が、過越の時期に行われたことを伝えている。
<~「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。~(ヨハ6:10)>。
マルコの福音書では、<青草の上にすわ(6:39)>らせたとなっている。
青草の上に座らせるとは、苦菜を添えて、ということではないだろうか。
四千人の給食の方は、過越の時期ではないので、<地面にすわるように(マル8:6)>仰っているように思える。
また、夕方から準備に取り掛かっている点についても過越の食事と一致している。
<夕暮れにそれをほふり、~(出エジ12:6)>。
<夕方になったので、~(マタ14:15)>。

以上から、五千人の給食は、過越の食事としての意味合いもあるように思える。
そうすると、羊の肉を魚で、種なしパンを大麦のパンで、苦菜を青草の上に座らせることによって、代用したことになる。
イエス様は文字(もんじ)に捉われない柔軟なお方である。
儀式は、本物の予型にすぎず、何より、イエス様が真の過越の羊であり、種なしパンであり、苦菜なのである。

このように考えると、我々、新約を生きるクリスチャンの二大儀式である、洗礼式と聖餐式も柔軟に捉えるべきなのかもしれない。
洗礼も聖餐も本体はイエス様にあるのである。