聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

ナボテとアハブ王

アハブ王は、イズレエル人ナボテのぶどう園を欲しがる(Ⅰ列王21:1)。
ただ単に、王の宮殿のそばにあるという地理的魅力と、野菜畑が欲しいという勝手な理由でである。
確かに、イスラエルで土地の売買は可能ではあるが、土地は、買戻しの権利を放棄して譲ってはならないとあるように(レビ25:23)、王様といえど、ナボテの土地を永久に所有することは、叶わぬことである。
仮に、一時的に所有するつもりであっても、ナボテにしてみれば、自分自身、経済的に困窮しているわけでもないし(文脈から判断すると)、神から預かった大切な土地を、王のそのような理由で軽々しく売るわけにはいかない。
おそらく、アハブもそのことは承知だったのだろう、それに見合う好条件をナボテに提示したが、人より神を恐れる、律法に忠実なナボテはこれを毅然と断る。
また、律法の第十戒で<隣人のものを、欲しがってはならない(出エジ20:17)。>ともあるから、やはりアハブは正しくない。
さて、ナボテに断られたアハブは、自宅でふて寝して引き籠るが、そこに妻のイゼベルがやってきて入れ知恵をする。
ナボテが神を冒涜したという罪をでっちあげて、死刑に処すればよいというのである。
恐ろしい女性である。
そうして、実際にナボテのいのちを取ってしまうのである。
早速、アハブはナボテの土地を取り上げようとそのぶどう園に向かうが、そこに、預言者エリヤが待ち構える。
エリヤは、怒りの預言を投げかける。
<『主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。』また、彼に言え。『主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。』(Ⅰ列王21:19)>。
<わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼ(Ⅰ列王21:21)>す。
当然である。
ところが、これらの厳しい預言でアハブは、<自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた(Ⅰ列王21:27)>。
すなわち、悔いたのである。
そして、これを御覧になった神は、彼を憐れまれ、彼の存命中は一家に災いを起こすことを思い直された(Ⅰ列王21:29)。
ただ、裁きが完全に取り消された訳ではない。
この後、アラム王との戦の際に、アハブはいのちを落とし、犬どもがその血をなめたため(Ⅰ列王22:38)、エリヤの預言はある程度実現する。
総合的には、裁きがやや緩和されたのである。

神は憐れみ深いお方である。
私は、このアハブ王には、不愉快の念を禁じ得ないが、そのような者であっても、わずかな悔い改めで、神は速やかに、裁きを取り消したり、軽減してくださるのである。
神は、アベルの命を取ったカインにも、彼が悔いたとき、速やかに恵みを施された(創4:15)。

また、私は、この所を読んだときに、ナボテはイエスキリストの雛型のように思えた。
旧訳聖書には、至るところに、イエスキリストの雛型なる人物であったり、事物であったりが登場するが、このナボテもまた、その一人ではないだろうか。
律法に忠実であったこと、時の権力者が相手でも臆することなく正しくあったこと、実際には全く罪がないのに、でっちあげで死刑執行されたこと、などの点においてイエスの生涯と一致している。
そうすると、それによって救われた人が存在するわけであるが、ここでは、裁きが軽減されたアハブ王がそれに当たると思われる。
エリヤによって裁きの宣告が下されたが、それを聞いてある程度悔い改め、裁きが緩和されたからである。
この点も、ペテロの説教によって、イエスを十字架に架けたユダヤ人が悔い改めて救われた展開と類似している(使徒2、3章)。

違いは、<人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。わたしたちはどうしたらよいでしょうか。」と言った(使徒2:37)>ことである。
ペテロの宣告を聞いて、ユダヤ人たちは、「わたしたちはどうしたらよいでしょうか。」と、ただ悔いるだけでなく、積極的に悔い改めようとした。
しかし、アハブは、エリヤの宣告により、ただ悔いただけである。
だから、神は、その後、エリヤを通してアハブに完全な救いの道を示せなかったが、ペテロを通してユダヤ人たちに、<悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊をうけるでしょう(使徒2:38)。>と言って、救いを示されたように思える。

もし、アハブが、エリヤの宣告の後、「わたしはどうしたらよいでしょうか。」と尋ねて積極的に悔改めようとしたなら、神は、エリヤを通してアハブに完全な救いの道を示していたのではないだろうか。

だから、アハブが完全に救われなかったのは、アハブの悔い改めが不完全だったこと、それゆえエリヤ(神)が、救いの道を示せなかったこと、この二点にあるように思える。

また、ナボテの血は、アハブの血を要求した(Ⅰ列王21:19)。
まさに律法にある通り、<目には目。歯には歯。(出エジ21:24)>であり、復讐を要求した。
そうしてその要求通り、アハブは死んだのである。
しかし、神は<十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させて下さった(コロ1:20)>。
イエスの十字架の血は、復讐を求めず、<和解(コロ1:20)>をもたらした。
イエスもまた、ナボテと同じように、何の罪もないのに死刑に処せられたが、イエスは復讐を求めなかったのである。
ここに、ナボテに優るイエスキリストが見える。
注目すべきは、イエスとユダヤ人との和解ではなく、神とユダヤ人の間の和解をイエスが取り持った、と言っていることである。
これを、イエスは、とにかくユダヤ人と神を和解させることを最優先しており、イエスとユダヤ人との和解は始めから必要ではなく、あくまでユダヤ人の救いのことを考えておられた、と解釈するのはいきすぎだろうか。
被害者が復讐を求めないと、加害者に悔改めの余地を与えるように思える。
福音の恵みはなんとありがたいのだろう。

しかし、イエスが復讐されるときが、やがて来る。
それは、黙示録に詳しく書いてある。
だからまさに、今は恵みのときである。
この恵みの時代に、一人でも多くがイエスを受け入れ、救われるのを願ってやまない。

<『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタ5:38、39)>
<自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタ5:44、45)>


ーまとめー
我々の側でなすべきことは積極的な悔改めである。
神の側でなさったことは、復讐ではなく和解である。
この双方の歩み寄りがあるとき、救いが成立するように思う。