聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

我を押し通したヤコブ

<私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ(創32:26)。>。

ヤコブは、ヤボクの渡しで徹夜祈祷会を開く。
双子の兄エソウに再会するに当たり、どうしても神の守りを必要としたからだ。
彼は、過去に一度ならず二度までもエソウを騙し、長子の権利と祝福を奪って逃げたことがある(創27:36)。
だから、対面する際の身の危険を感じており、なんとしてでも神の加護を再確認したかったのだろう。
ヤボクの渡しで、夜通し祈りの格闘をするのである。
しかし、夜明けまで祈っても、神の祝福を確認できなかった。
とうとう、神の御使い(受肉前のイエスキリストという人がいる)は、ヤコブの元を去ろうとするのであるが、ヤコブは冒頭のように言うのである。
冒頭の聖句を筆者なりに訳すると、以下のようになる。
「俺を祝福してから行け!」。
これは、驚くべきことである。
彼は、このとき、もものつがいを打たれて<びっこをひいて(創32:31)>いたため、得意の逃げ足を使うことができず、いよいよエソウから逃げられなくなっていたから、「神よ、エソウを騙したことを赦してください。」と祈りすがってもおかしくなかったが、最後まで、「俺を祝福しろ!」と言ったのである。
ヤコブは、ベテルで神の祝福を約束されていたから(創28:13~15)、改めて願うまでもないように思えるが、やはり不安だったのだろう。
それにしても、なんと神の祝福に執着した人だろうか。
ヤコブが、なぜ、罪の赦しよりも神の祝福に執着したのかは定かではないが、とにかく執着したのである。
しかし、イエス様は、そのようなヤコブについには折れて、「わかった、祝福しよう。」と言って、彼を今一度祝福したのである(創32:29)。
ヤコブはこの時からイスラエルと名を変えられるのであるが、イスラエルという名前は、「神と人とに勝った者」という意味であることがわかる(創32:28)。※
本当のところ、ヤコブがイエス様に勝てる訳がないのであるが、イエス様の方が折れて、負けてくださったのである。
ヤコブは、最後まで我を押し通し、祝福を勝ち取った。
そうして、無事、エソウと和解を果たした。
ある意味イスラエルとは、その名の通り、我を押し通し神に勝った者の集まりと言える。
どれだけ神に懲らしめられても、喉元すぎれば熱さ忘れる、で、再び<めいめいが自分の目に正しいと見えることを行な(士師17:6)>う群れなのである。
そのような者を繰り返し繰り返し赦しなさる神の愛が、聖書には数多く伝えられている。

別記事の中でも触れたが、バビロン捕囚のユダヤ人にも神は折れて下さり、<わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう(イザ57:16~18)。>と仰ってくださった。

また、新約においても、フェニキアの女は、一度は退けられたが、最後までイエスに肉薄し、癒しを勝ち取った(マタ15章)。
福音書では、イエス様が信仰を特にお褒めになった人物が二人いるが、この女性は、そのうちの一人である。

我を押し通すことのすべてが悪いわけではない。
善を行う際は、悪に負けるわけにはいかないから、我を押し通す場面も出てくる。
例えば、バプテスマのヨハネは、<「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と言い張っ(マタ14:4)>て折れなかった。
そう考えると、ヨハネとは事情が異なるが、ヤコブが執着したのは神の祝福であり、それは悪いものではない。
フェニキアの女も、娘の回復を願ったのであって、それも悪いものではない。
バビロン捕囚の民については、<むさぼりの罪>とあるから、これについては悪いものに執着している者たちであるが、これについてもなんと神は折れて下さった。
どうやら、神は、良いものでも悪いものでも、それに執着する者に対して折れて下さることがあるようである。

また、自己主張がしっかり出来ない人は、祈りの際、はっきりと自分の要求をイエス様に伝えられなかったりする。
イエスは盲人に、<わたしに何をしてほしいのか(マタ20:32)。>と仰られた。
盲人は<この目をあけていただきたいのです(マタ20:33)。>と自分の要求をはっきり伝えた。
ヤコブもフェニキアの女も、自分の必要をしっかり伝えている。
自己主張の習慣がついていない人は、このイエスの<何をしてほしいのか>にしっかり答えることができず、恵みから漏れてしまうことがある。
モジモジしていてはダメな場合がある。

なお、究極的に神が折れて下さった出来事と言えば、言うまでもなく、イエスキリストの十字架である。
我の強いユダヤ人を、イエスキリストは、御使いの十二軍団を呼びよせて滅ぼすことも出来たが(マタ26:53)、そうはなさらず十字架にかかってくださった。
明らかに悪い人たちのために神は折れて下さった。

聖書では、従順や謙遜が繰り返し繰り返し命じられているが、上記のように、我を押し通して祝福を勝ち取った者の存在も伝えている。
本当に、神の愛の広さは計り知れない。
しかし、願わくは、この神の愛に甘えることなく、私も、自分を捨てイエスに倣う者と変えられていきたい。
ヤコブのように我を押し通すことも多いけれども。


「イスラエル」という言葉の意味は諸説ある。
「神の王子」という解釈が一般的なようだが、より、文脈に沿って理解すると、「神と人とに勝った者」となる。