聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

福音派と聖霊派 ②

これは、前回の「福音派と聖霊派」の続きである。

実際、私が体験したことであるが、あるとき、兄弟が病に苦しんでいた。
ある福音派の先生は、「この病が癒されなくても、兄弟が信仰を失うことのないように。」と祈られた。
別の教会で、同じような病で苦しむ兄弟に、ある聖霊派の先生は、その人に手を当て、「病よ。イエスの御名によって命ずる。その人から出ていけ。」と祈られた。

つまり、福音派の先生は、「もちろん病は癒されてほしいが、苦しみの中にあってこそ、信仰が試され品性が練られるとも言えるから、この病を通して、兄弟が信仰を堅くし、心を強くされますように。」と祈られたのである。
(すべての福音派の先生がそうだとは思わない。その先生はそういう考え方でした。)
一方、聖霊派の先生は、「とにかく病の癒しを願い、なりふり構わず、癒しを勝ち取ろう。」と考えられたのである。
(これもすべての聖霊派の先生がそうであるかはわからない。この先生は癒しの賜物を持っておられ、たくさんの人を癒す先生でした。)
治療のことを「手当て」と言うが、文字通り手を当てて祈るのも、なりふり構わず祈る一つの現れと思われる。イエス様も、<~病人に手を置けば病人はいやされます。(マル16:18)>と仰っておられる。

聖霊派は、病を通して品性を練るより、病がすぐに癒されることを重視する印象である。
福音派は、病の癒し以上に、病を通して練られた品性を身に着けようとする印象である。

例えば、御霊の九つの実(ガラ5:22)の中の「喜び」について言うなら、福音派は、「病は癒されずとも、救いは保証されているのだから、イエスの再臨を、苦しみの中にあっても喜び待とう。」などとなるが、聖霊派は、「病そのものが癒されて、喜ぼう。」という印象である。

だから、福音派の方は、確かに御霊の実の「喜び」を得ていくのだろう。
しかし、御霊の賜物の「癒し」に消極的になりそうである。
聖霊派の方は、癒しの賜物を用い、病そのものをよく癒すが、御霊の実の喜びは得にくいように思える。
なぜなら、実というのは、時には、雨風にさらされ日照りを耐え、年月をかけて実るものだから、瞬間的に病が癒されて喜ぶと、それは御霊の実の喜びとは言い切れず、ただの喜びであるように思えるからである。
この喜びは、ルカの福音書のらい病人のようになりうる。
<そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」(ルカ17:17、18)>。
すなわち、すぐに癒されると、品性は練られないのである。
ただ、もちろん、実際に癒されたのだから、大いに喜んでいいのである。

だから、繰り返しになるが、この場合、福音派は、御霊の実の喜びを重視し、聖霊派は、御霊の賜物の癒しを得ようとする印象を受ける。
福音派は心がきよめられ、聖霊派は体が癒される。
どちらも同じ聖霊の働きである。

話は脱線するが、ガラテヤ五章二十二節で、パウロが、御霊の行いとは言わず、御霊の実と言ったのは、もしかすると、移り気なガラテヤ人に、じっくり腰を据える必要を説きたかったからかも知れない。
<~あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。(ガラ1:6)>。
実は時間のかかるものである。
すぐに実るものではないから、焦って福音をすぐに見捨てることのないように、という意味を込めたのではないか。
即効性を求めたガラテヤ人は、手軽に変化を感じる割礼等に安んじようとしたのだろう。

最後に私の考えを述べると、まずはやはり、聖霊派のように積極的に病の癒しを祈るべき、と考える。
苦しんでいる兄弟姉妹を目の前にして、癒しを祈らないのは愛に欠けているし、もし、「まことの品性を得るために、病は癒されない方がよい。」とまで考えるなら、それは行き過ぎである。
まずは、熱心に癒しを祈り続け、それでも癒されない場合は、福音派のように、品性を整える機会と前向きに捉えられるよう、その人に寄り添うのが良いのではないか。
そのようにして共に歩むと、いつのまにかその人は、御霊の実である、主を喜ぶまことの喜び、苦しみの中にあってのまことの平安、などという品性を得るのではないか。