聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

ダビデVSゴリアテ

<イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。(Ⅰサム17:52)>

おそらく、聖書で最も有名な物語の一つであろう。
ダビデとゴリアテの対決である。
Ⅰサムエル記で、イスラエルの最大の敵はペリシテ人と言っていいと思うが、その戦いの頂点にあるのが、このゴリアテとの一戦である。
身長2メートル90センチ弱の大男。
この大男との一対一の戦いをペリシテ陣営は願い出るが、イスラエル陣営は恐怖心から、これに応じる者はいない。
そこに一介の羊飼いに過ぎないダビデが現れ、味方の冷ややかな対応も脇目に、見事、このゴリアテに打ち勝ち、イスラエル全体を勝利に導く。
この後、面目を潰される形となったサウル王からは執拗にいのちを狙われることとなる。

日本に限らず、世界中のどこででも、小よく大を制す、は万人の心を喜ばせるものだ。
小兵力士が大柄な関取を破ると館内は沸きに沸く。
聖書が伝える、このジャイアントキリングもそれゆえからか、多くの人に読まれている。

ダビデは、信仰によって、このゴリアテを倒すのであるが、彼は無謀な戦いを仕掛けたわけではない。
<獅子でも、熊でも打ち殺しました。(Ⅰサム17:36)>とあるとおり、普段から、大柄なものとの戦いに慣れており、ゴリアテを見ても恐怖に震えあがることはなかった。
以上から信仰のチャレンジを学ぶことができる。
大胆と無謀の見極めは、普段の積み重ねによって判断するということだ。
もちろん、聖霊の満たしも併せて必要である。
ダビデは<主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。(Ⅰサム16:13)>とある通り、聖霊の強い感化を受けていた。
新たな物事にチャレンジする際は、この聖霊の満たしも不可欠である。

さて、この物語の中で、一番幸運だったのは誰だろうか。
何もしていないのに救われた者たちがいるのである。
わたしがわざわざ言うまでもなく、聡明な皆さんはすでにご存知であろう。
それはイスラエルの陣営である。
はじめ、陣営は<意気消沈し、非常に恐れ(Ⅰサム17:11)>ていたが、ダビデがゴリアテの首を取るのを見て、冒頭の聖句にあるとおり、<立ち上がり、ときの声を上げて>ペリシテ人を倒した。

彼らは何もしていない。
恐怖に震えていただけである。
しかし、助けを祈った訳でもないのに、ダビデの方から陣営にやって来て、兄エリアブの<うぬぼれと悪い心がわかっている。(Ⅰサム17:28)>という非難や、サウル王の<あれと戦うことはできない。(Ⅰサム17:33)>という評価を聞きながらも、ただ、一方的にゴリアテを倒したのである。
これにより、ゴリアテから救われたイスラエル陣営は<立ち上が>ることができた。
彼らはダビデがゴリアテの首を刎ねるのを見ただけである。
見たら立ち上がったのだ。

救いもその通りである。
我々も、イエス様がサタンの首を刎ねたあの十字架を、よく仰ぎ見ることである。
蛇の頭にかかと落としをした(創3:15)、あの十字架をよく見ることである。
もちろん、イエス様の方が、サタンよりもはるかに強いお方なのだから、ダビデのように、自分より大きな敵を倒した訳ではないが、敵のボスを倒したという意味においては同じである。
この、世の終わりにあって、サタンは虫の息であり、頭は踏み砕かれ、尾が躍動しているに過ぎない、とある先生が仰っていた。
聖書にもこう書いてある。
<ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコ4:7)>
この位、サタンは弱体化している。
だから、このイエスの十字架をよく見るべきである。
そうすると、私たちも<立ち上が>ることができる。
そうして<ときの声を上げて>、悪霊共の残党を蹴散らし、勝利する者となる。
私たちが相手にするのは、頭の踏み砕かれたサタンと悪霊共の残党である。
冒頭の聖句で、ユダの人たちがペリシテ人の残党を蹴散らしたのと同じである。

エリアブやサウル王がダビデに悪態をついても、ダビデはゴリアテから彼らを救った。
同じように、私も、イエス様に対して、ときには悪態をついてしまう者である。
しかし、イエス様はそんな私のためにも十字架に架かり、サタンの首を刎ねて下さった。
感謝してもしきれないではないか。

ある意味、救いは目撃するものである。
十字架をよく見ることである。
繰り返しになるが、そうすると<立ち上が>る、すなわち新生するのである。