聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

フルーツパフェと煮干し

幼い頃、フルーツパフェなどの甘い物が大好きだった。
もちろん、今でも好きではあるが、大人になるにつれ、段々と苦い食べ物も好きになっていった。例えば、和食の根菜系の料理だとか、魚料理とかである。
目に見える食べ物がそうなら、目に見えない食べ物もそうではないだろうか。
少なくとも私にとってはそうで、目に見えない食べ物、いわゆる「言葉」においても、幼い頃は甘い言葉が大好きだったが、成長するにつれ、苦い言葉も食せるようになった。
洗礼を受け、クリスチャンになり、新生したての頃は、霊的赤子であり幼子である。
この頃の私は、甘い甘い言葉ばかりを味わっていた。
もちろん、開き直って言うなら、幼子は、ある程度それで良いのである。
例えば、これは聖書の教えとは異なるゆえ、本来まずいのであるが、「あなたはありのままでいていい。」だとか、「神様は、あなたをまるごと愛している。」とかである。
聖書でいうなら、<すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタ11:28)>などである。
こういった言葉を食し、元気になったものだ。

ある牧師先生がこんなことを言っていた。
「いやあ、僕もたまに、息抜きでスポルジョンとか読むけど、やっぱり甘いよね。」。
私はこれを聞いて痺れてしまった。
背伸びがちな私は、一刻も早くこの先生のようなことを言ってみたいと思ったものだ。
甘い信仰書を卒業し、聖書そのものをしっかり読める霊的大人を目指したものだ。
(もちろん、スポルジョンを含めた数々の信仰書が悪いと言っているのではありません。恵まれることはたくさんあります。)。

しばらく経って、霊的に成長するに従い、ようやく聖書の御言葉そのものを、とりわけ、苦い御言葉を少しづつ食せるようになった。
苦くてすぐに吐き出してしまうときもあるが、食せるようになった。

また、聖書の御言葉は、苦いを通り越して、もの凄く痛いものもある。
<神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、~(へブ4:12)>、
<~また御霊の与える剣である、神のことば~(エペ6:17)>と言うとおり、御言葉は剣でもあるからである。
「良薬、口に苦し」という日本のことわざがあるが、聖書の御言葉も食すと苦く、剣だから痛いものもある。
例えば、ピリピ書の<だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(2:21)>などは、剣のように私の心を刺し通し、痛くて動けなくさせる聖句である。
しかし、こういう御言葉もまた、まことの食物であり、まことのいのちをもたらすものである。
霊的大人は、そのような痛い言葉も食し、また甘い言葉等もバランスよく食して、そうして霊的いのちを得ていくのではないだろうか。
私自身、まだまだ若いゆえ偉そうには言えないが、そういうものではないだろうか。