聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

らくだが針の穴を通る

<~まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。
「それではだれが救われることができるのでしょう」
イエスは彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」
(マタ19:24、25、26)>

以下のような解釈がある。
当時のエルサレムには、針の門という名の門があった。
これは、らくだが背中の荷物をすべて降ろし、膝をかがめてようやくくぐれる狭い門であった。
私たちも同じである。
すなわち、このらくだのように、金銭に伴う悪い思い(見栄のためにあれを買おう、等)をすべて捨ててこころ貧しくなり、らくだが膝をかがめたようにへりくだらなければ、エルサレム(神の国)に入ることはできない。
<こころの貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタ5:3)>

「らくだが針の穴を通る」とは、素直に慣用句的表現ととって、要は金持ちが救われるのは不可能に近いと理解するのが自然であるが、上記の解釈も恵みにあふれている。
エルサレムには多数の門があるが、その中に針の門という名の門は見当たらない。
私が調べた限りにおいては、聖書にその記述はない。
別の人は、エルサレムに入る大きな門の脇の小さな門のことと言っているので、その門のことをいうのかもしれない。

さて、なぜ弟子たちは驚いたのだろう。
弟子たちは、金持ちは神の国に入れるという認識だったということになる。
実のところ、私も確信は持てないが、思うところは申命記28章だろうか。
なお、この章は旧約聖書全体を通してきわめて重要な章といわれている。
申命記以降、ヨシュア記からⅡ列王記に至るまで、この章を証明するために書かれたという説があるからだ。(申命記的歴史という)
この章は、神の律法に従う善い人は祝福され、律法に逆らう悪い人は呪われるという条件的祝福が事細かに記されている。
もう少し言うと、神の法律に従う人は祝福されて財産が豊かになるが、法律に逆らう人は呪われて貧しくなるということが書かれている。
ゆえに、ユダヤ人たちの間では、裕福か裕福でないかが善人と悪人を見極めるバロメーターであったと思われる。
金持ちということは、律法を正しく守っていて、神から祝福されている。
神から祝福されているなら、当然、神の国に入れる。
以上のような考えであったから、弟子たちは驚いたのではないか。

しかし、イエス様は、ユダヤ人の通念とは逆で、金持ちは神の国に入れないという。
どういうことだろう。
もしかすると、金持ちの多くは、始めはよかったのかもしれない。
純粋に神の戒めを守り正しく生活していた。ゆえに神はその人を祝福した。
そうして財産がふえた。ところが、いざ財産を持つと豹変してしまい、自分の為だけに使うようになった。自分の栄光のためにのみ使うようになった。
それゆえ、神の国から落ちてしまった。

改めて考えてみると、神はなぜ律法を守る者の財産をふやすのだろう。
ひとつは純粋に嬉しいからだろう。
親は子供がいいつけを守れば嬉しいものである。
素直な子供にはご褒美を与えたくなるから、父なる神もそれと同じなのだろう。
もうひとつは、「私のいいつけ(律法)を守れる正しい人であれば、多くの財産をまかせても正しく使ってくれるだろう。例えば、やもめやみなしごという弱者に施しをするような使い方をしてくれるだろう。」という考えからではないか。
ところが、金持ちはいざ財産を持つと、繰り返しになるが、豹変してしまい自分だけのために使うようになり、神を悲しませてしまった。

このように考えると、金持ちの青年が去っていったことが何となくわかる気がする。
青年は律法はみな守っていると言っている(20節)。
それゆえ、祝福されて財産が増えたが、いざ金持ちになると、そこに執着してしまったのではないか。
だから、イエス様が<貧しい人たちに与えなさい。(19:21)>と仰られたとき、それに応えることができなかった。

聖書は、このようにも注意している。
<あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。~(申命8:12、13)>。

金銭については、確かジョンウェスレーの言葉で以下のものがあるが、至言である。
「金は大いにもうけ、大いに蓄え、大いに神と人とのために捧げるべきである。」
日本人は、清貧という生き方を、ことさらに喜ぶところがないだろうか。
もちろん、清く貧しくもよいのかもしれないが、ウェスレーは、積極的に財産をふやし、神と人とに捧げる生き方を勧めている。

実は聖書でも財産をふやすことを称賛し、また義務づけている。
<すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。
「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」
その主人は彼に言った。「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタ25:20、21)>

金持ちは神の国に入れないと言ったイエス様が、ここではお金をふやすことを命じ、義務づけている。
なぜなら、1タラントをふやさなかったしもべは、そのタラントを取り上げられているからである。<だから、そのタラントを彼から取り上げて、~(マタイ25:28)>。
そして、もう一点注目すべきは、五タラントもうけたしもべは、全額、神に捧げていることである。自分のためには一銭も使っていないのである。

だから、自分のためというより、神と人とのために、お金をふやすべきである。
お金に伴う悪い思いは、らくだが針の穴を通るようにして捨てなければならないが、お金そのものはしっかりふやし、神と人に捧げるのである。

これは、極めて難しいことのように思うが、冒頭の聖句で、人にはできないことが神にはできるとイエス様はおっしゃった。
クリスチャンは聖霊(=神)を受けている。
だからできるのである。
もちろん、私にもできると信じる。
私の内におられる神(=聖霊)がそれをなしてくださる。