聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

フロイドメイウェザーVS那須川天心

御覧になった方も多いのではないか。
2018年大晦日のビッグイベントである。
五十戦無敗のまま引退した伝説的ボクサーのメイウェザーと、日本のキックボクサーで無敗の若きカリスマ那須川天心君のエキシビションマッチである。
私も大変楽しみにしていて、リアルタイムで拝見させていただいた。
結果はというと、天心君の敗退であった。
残念だったのと、やはりメイウェザー強しといった感じだった。

私は格闘技についてはまるで素人なのだが、海外の方が大変興味深いことを言っていたので、それについて私見を述べたくなってしまった。
何分素人考えゆえ、これから申し上げることは、その点ご理解いただけると感謝です。

さて、その海外の方が言っていた興味深いこととは以下の通りである。
日本とアメリカでは試合に臨む姿勢が根本的に違う。
日本はプロセス重視、内容重視。
極端に言えば、結果はどうあれ、いかに大和魂で試合に臨んだかを重んじる。
ところがアメリカは逆で、内容はどうあれ結果がすべて。
勝つことにこだわるというのである。

こんな意見だったように思うが、これは本当に考えさせられた。
この方が言うように、実際に天心君が大和魂で試合に臨んだかどうかはわからない。
少なくとも言えることは、天心君はこの試合に大変不利なルールで臨んだことである。
天心君の本職はキックボクシングである。
しかし試合はボクシングルールでキック禁止。
キックボクシング特有のステップ禁止。
万一キックを繰り出すと一発につき五億円の罰金。
そしてあの体重差。グローブに調整はあったが、どれ程有効だっただろう。
その他、試合直前に、付き人にグローブの中身を確かめさせるメイウェザーの行為。
天心君がグローブの中に石を仕込んでいると疑ったのだ。
さすがにこれには天心サイドもノーと言ったが、メイウェザー陣営は一歩もひかず。
根負けした天心君がグローブをほどき、中を確かめさせた。
もちろん石などあるはずがない。
これが試合直前の出来事である。
これから気持ちを整えるという一番大事な時間を奪われてしまったのだ。
彼自身が言っていたが、リングに上がったときには相当頭に血が上っていて、平常心とは程遠い状態だったそうだ。

大和魂を辞書で調べると、勇敢で潔くふるまうこと、などと書いてあった。
確かに日本人は、勇敢で潔いことをことさらに評価する民族のように思う。
一方、メイウェザーのどこが勇敢だっただろう。どこが潔かっただろうか。
これだけ自分に有利なルールで戦うなど勇敢ではないし、試合直前のグローブ問題は潔くもない。
アメリカ人だから当然なのかもしれないが、メイウェザーには大和魂が見当たらない。
私がメイウェザーの立場だったら、恥ずかしくてとても同じことは出来ないだろう。
しかし、勝利を持ち帰った。
一方、天心君は最後まで勇敢に立ち上がったが、タオル投入で無念の敗退となった。

実はこの試合、プレッシャーがかかっていたのはメイウェザーの方ではなかったか。
五十戦無敗のまま引退して今更キャリアに傷をつけるわけにもいかない。
エキシビションとはいえ負けるわけにはいかないから、あらゆる手を使った。
一方、天心君の方はどうだっただろう。
これだけ不利なルールを押し付けられて、どんな気持ちだったのだろう。
何かこのエキシビションを受け入れざるをえない大人の事情があったのかもしれない。
あるいはその海外の方が言うように、大和魂のみで向かっていったのか。

「本当のプロならどんなルールでも勝たなければだめだ。」と聞いたことがある。
もっともらしく聞こえるが、私は実際にどんなルールでも勝ちきっている人を知らないし聞いたこともない(私が知らないだけかも知れないが)。
四百戦無敗のヒクソングレイシーは、船木さんと戦うとき、船木さんの有利なルールには決して首を縦に振らなかったという。
(それだけ船木さんの力を認めていたということだろう。メイウェザーも然り。あれだけのルールで戦うということは、それだけ、天心君の力を認めていたに違いない。)
また、メイウェザーは現役時代、絶対に戦わなかった相手が二人いたそうである。
つまり、メイウェザーもヒクソンも、己をよく知っていたということなのだろう。
自分がどのルールなら勝てるのか、誰なら勝てるのかをよく知っているのだ。
勝てない試合は、はじめからやらない。
それは臆病のようにも思えるが、己の力量を見極め、それがどの程度であってもそれを潔く認めることにも勇気がいるであろう。

ジーザスの言葉
<また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かってくる敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。(ルカ14:31.32)>

この聖句は、ジーザスの弟子志願の文脈の中で語られている。
つまり、ジーザスの弟子に志願するのはよいが、前もって弟子をやりぬけるかどうかをよく考えてから志願すべきことをこのたとえ話で語っている。
しかし、この聖句は、前後の文脈を踏まえずこの部分だけを拾い読みし、ジーザスの弟子志願のみならず、すべてのチャレンジにあてはめてもそれ程間違いではないだろう。
すべてのチャレンジには、やはり事前の勝算判断が必要なのである。
まわりくどくなったが、要は、よく考えてから行動するように、とジーザスは言っているのである。

冒頭で、日本人は内容にこだわる、アメリカ人は結果にこだわるといったが、これは日本人、アメリカ人として定義せず、すべての人種のすべての人の中にそれぞれ一定数いると考えた方が当たっているかもしれない。
物事にいかに大和魂でチャレンジしたか、そのプロセスを大事にする人と、勇敢でなかろうが、潔くなかろうが、結果にこだわる人と。

天心君のすごいところはあれだけの惨敗を喫したにも関わらず、メンタルにほとんど悪影響がないように見えることである。
自信を失い、それまでの強さを失っていないように見える。
それは本当にすごいことのように思う。負けを受けとめる度量に関しては、メイウェザーより上をいっているのではないか。
なぜならメイウェザーは負けたことがなく、負けを受けとめる機会を経験したことがないのだから。

今後、私が物事に取り組むとき、内容も結果も勝利なら言うことなしだが、どちらかを選ばなければならないとするなら、どうするだろうか。
内容重視でいくのか。結果重視でいくのか。
メイウェザーの振る舞いを見ていると大変考えさせられる。