聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

コーヒーカップ

ある映画のセリフ。

「私は、両親を交通事故で亡くしたあと、遊園地に行って、一日中コーヒーカップに乗って遊んだわ。とても耐えられそうになかったから。
あれから色々経験して、年数も経て大人になったけれど、実は、私はまだコーヒーカップから降りていないように思う。」

確か、このようなセリフだったと記憶している。
幼い頃に両親を亡くした女性は、大人になって当時を振り返り、冒頭のようにつぶやくのである。
コーヒーカップは楽しいものである。目が回り、自然と笑い声が出てくる。
遊園地は現実を忘れる息抜きの場所である。
コーヒーカップは目が回って、それこそ現実を見つめなくてすむ。
四六時中、現実と向き合うと、緊張感が消えず、張り詰めたゴムの状態が長く続くこととなる。
そうするとやがてバーンアウトし、そのゴムは伸びきってしまう。
だから、長い人生において張り詰めたゴムを緩める息抜きは不可欠である。
しかし、遊園地に留まってはならないことは言うまでもないことである。
彼女は、その身においては遊園地を出たのかもしれないが、心は、遊園地から出てはいなかった。
そして大人になってようやくそのことに気づくのである。
無理もないことである。
もし私が同じような経験をしていたら、果たして冷静でいられるだろうか。
彼女と似たようなことをしたに違いない。
辛い現実と向き合うのは並大抵のことではない。
「三つの真実より一つの綺麗な嘘を」と言った作家がいたが、確かに私も時には綺麗な嘘にすがりたくなる。
だから、架空のドラマがヒットするのだろう。
しかし、現実はドラマのようにはいかず、辛く苦しいことがある。

彼女は、その映画の最後に、どうしても手放せなかった亡き父のギターコレクションを競売にかけて売ってしまう。
冒頭の発言で我に返り、父と母はもういないという辛い現実を認め、受け入れたのだ。
すなわち、彼女はコーヒーカップから降りたのである。

私の好きな聖句で以下の言葉がある。
<ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。~(創33:1)>
ヤコブは兄エサウを騙した罪を思い出し、押しつぶされ、うつむいていた。
しかし、いよいよ兄エサウと対面しなければならなくなったとき、ヤボクの渡しで徹夜祈祷会を開き、<ある人(創32:24)>と祈りの格闘をし、兄エサウを騙した現実と向き合った。
<ある人>とは受肉前のイエスキリストだという人がいる。
格闘の末、イエス様にもものつがいを打たれ、<~そのもものためにびっこをひいていた。(創32:31)>ため、いよいよ兄から逃げられないと観念したヤコブは、ついに兄エサウを騙した自分の姿を認めた。
逃げ道を塞いで腹をくくらせるのはイエス様がなさることであり、それには時がある。
神が定めたときに、ヤコブは自分の姿を認め、目を上げることができた。
そして、ヤコブが目を上げるとエサウがやってくるのである。
ヤコブは兄エサウと和解を果たした。

神は優しいお方である。
ヤコブが目を上げられないときには、エサウをよこさないのである。
天からご覧になり、ヤコブの準備が整ったときにエサウをよこし、最終テストを無理なく乗り越えられるようにしてくださる。

先の少女は、コーヒーカップで、上を見上げ笑っていた。
一方、ヤコブは、ヤボクの渡しで、おそらく、下を向きうつむいていた。
見える姿は正反対でも、心においては同じありようで、それは現実逃避である。
現実に耐えかねて上を見上げて笑うのも、現実に押しつぶされ、下を向き、押し黙るのも根は同じである。
コーヒーカップの彼女は自力で現実を受け入れ、ヤコブは<ある人>に打たれて現実と向き合った。
二人とも長い年月を経てはいるが、乗り越えたのである。

クリスチャンについて言えば、ヤコブのように神と共に辛い現実を乗り越えていくのだ。
全能の神が共にいてくださるとは、なんと心強いことか。