聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

体欲はなくならない

<さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた(ルカ4:1、2)。>

四十日四十夜断食すると神経が研ぎ澄まされ、目がはっきり見え、不純物が取り除かれ、イエスの体が光輝いたというのではない。
聖霊に満ちているのだから、何か神秘的な現象を期待してしまうが、(確かに、イエス様が光り輝いたというのは、のちに実際出てくるのであるが、)ここではそういう神としての顕現はない。
当然といえば当然であるが、断食したら腹が減ったというのである。
神の霊に満たされた神ご自身でさえ、四十日も断食すれば腹は減るのだ。
神であっても、人間の体の中に入るとその制約を受けるのである。
この聖句は、体欲の滅却などありえない、と暗に伝えている。

いわゆる人間の三大欲求の、食欲、排泄欲(性欲)、睡眠欲は、この肉体にいる限りなくならない。
それどころか、人間の体が生きていく上で、この三大欲求は不可欠である。
要は向き合い方だろう。
体欲をことさらに汚れたものとみなし、それを取り除こうとするのは不自然だし、この欲求をどこまでも追及することもまたおかしい。
使徒行伝にストア派とエピクロス派が出てくる(使徒17章)。
ストア派はストイックという単語の元になった言葉で、いわゆる禁欲主義者の集まり、エピクロス派は反対に快楽主義者の集まりと伝えられている。
どちらも根は同じで自己満足である。
ストア派は禁欲的になって自己満足し、エピクロス派は快楽に流れて自己満足する。

では、クリスチャンはどうあるべきか。
答えは聖霊による自由主義、自制主義であろう。

イエス様は、罪人に寄り添うために、罪人と共に食べて飲まれた。
<人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。」~(マタ11:19)>
実際に大酒飲みだったかはわからない(敵方の発言ゆえ)が、ぶどう酒を飲んでおられるのは間違いない。
罪人をひとりでも多く招くため、共に食事をし、神の国について語ったのだろう。

一方、パウロは兄弟姉妹を躓かせないためなら、今後一切、肉を口にしないという。
<ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。~(Ⅰコリ8:13)>

どちらも相手のためなのである。
もちろん、自分の必要のためにも食べるのであるが、重心は他者に置かれていて、相手のために、食べたり控えたりするのである。
イエス様もパウロも、自由に食べ、自制して食べないのだ。
繰り返しになるが、どちらも相手のために使いわけるのである。
これがクリスチャンの理想のあり方と思われる。

冒頭で、空腹だったイエス様は、悪魔の試みに会われたとき、マタイの福音書では、<人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる(マタ4:4)>とおっしゃった。
もちろん、パンは必要だけれども、併せて必要なのは神の口から出るまことのパン、すなわちいのちのことばである、と言ったのだ。
このいのちのことば、愛のことばによって内面が養われるとき、他者への愛の道が開けると思われる。
稚拙な言い方であるが、まずは、お腹一杯より、神の愛により胸一杯になることである。
すると、他者のために食べたり控えたりできるようになるのだろう。