南ユダ10代目の王、ウジヤは、政治、産業、軍事において勝利を治めた人物として描かれている。
エラテの地を再建し(Ⅱ歴26:2)、ペリシテ人、アラビヤ人、メウニム人を退け(Ⅱ歴26:6、7)、農業を発展させ(10節)、強力な戦闘部隊を持ち(11~13節)、それに多くの武器を持たせた(14節)。
すべては、彼が霊的指導者の言うことをよく聞き、神に従ったからこれらのことが起こったのである(5節)。
しかし、その後期においては、彼は高ぶり、神に逆らい、好き勝手な礼拝を執り行おうとしたため、らい病に冒され、ついに死ぬこととなった(16~23節)。
このウジヤも他の南ユダの王と同様、人生の後半において失敗してしまった。
最後の最後に神に逆らい、死ぬまで悔い改めなかったのである。
イエスキリストは、人の心を再建し、パリサイ人(形式主義、宗教主義)、律法学者(学問主義)、ヘロデ党(政治主義)、金持ちたち(経済主義)を退け、農産物以上に御霊の実を人の心に豊かに実らせ(ガラ5:22、23)、信じる者に、信仰の大盾、御言葉の剣などの真の武器を持たせ(エペ6:14~17)、御自身の戦闘部隊に加えようとなさるお方である(Ⅱテモ2:3)。
ウジヤ王は、人生の後半に神に逆らい、らい病に冒されて死に、墓に葬られたが、イエスキリストは、最後まで天の父に従い、全人類の罪を背負って十字架で死に、墓に葬られたが、三日後に蘇られた。
預言者イザヤは、この<ウジヤ王が死んだ年に(イザ6:1)>、神を見た。
ウジヤが繁栄しているときではない。
おそらく、あれだけ成功したウジヤであっても、神に逆らい悔い改めないと命を取られるのを目の当たりにして、真に神を恐れたため、霊の目が開かれ神を見ることが出来たと思われる。
神を恐れることが、霊の目の開かれる大事な要素であることがこのことからわかる。
そういえば、会堂で、イエスが神の聖者であることを真っ先に見抜き、<あなたは私たちを滅ぼしに来た(マル1:24)>と言ったのもイエスを恐れる汚れた霊であった。
しかし、彼らは、イエスを裁き主としてのみ信じ、救い主としては信仰していないため、神を見ることは出来てもゲヘナを免れないと思われる。
イザヤも同様、神を見たとき、<ああ。私は、もうだめだ。(イザ6:5)>と言ったが、<祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭(イザ6:6)>により、唇をきよめられ救われ、正式に預言者となった。
この<燃えさかる炭>は、一種の火のバプテスマのようにも思えるが、いずれにしてもこのきよめと救いは、イザヤの功罪によるのではなく、ただ神の恵みである。
イザヤの信仰は、悪霊たちのそれと変わらないように思えるが、違いは、燃えさかる炭による救いがあったかなかったかである。
私たち新約のキリスト者は、イエスとともに、十字架という祭壇の上で全焼のいけにえとなった者。
全身を火できよめられ救われた私たちが、唇だけきよめられ救われたイザヤより大きな働きをするのは当然である。