聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

崖の上を歩くクリスチャン

<動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。~すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。(レビ11:3、4)>

これは以前に書いた「豚肉を食べない人たち」の続きである。
では、ひづめが分かれていない動物が汚れているとはどういうことだろうか。
これもらくだと同様、私たちに向かって語られていると思われる。
なんでもひづめが分かれている動物というのは、足元が滑りにくいのだそうだ。
私は動物学者ではないのでその原理はわからないが、とにかく滑りにくいのだそうだ。
山羊の親子が崖を飛び跳ねながら降りていく映像を見たことがあるが、あれはひとつはひづめが分かれているからなのだろう。
また、私は以前、ユーチューブで驚くべき映像を見たことがある。
ダムのほぼ垂直の壁を同じく山羊の親子が登っていくのだ。
高さは五十メートルほどだろうか。
足を滑らせれば一巻の終わりであるが、わずかな突起を頼りにそれを登っていく。
何をしているかというとコンクリートの裂け目から流れる水を飲みに登っている。
あれもひづめが分かれていることが関係しているのだろう。

さて、われわれクリスチャンも足を滑らせて落ちてはならない。
駅前の繁華街を歩くというのは、ある意味、崖の上を歩いているようなものである。
右にはパチンコ店、左には居酒屋、その奥にはゲームセンター等々、適度に楽しむならまだしも、深入りするなら霊的に死んでしまう場所が至るところにある。
信仰の歩みが滑ってそのような場所に入るなら、霊的には落ちていくこととなる。
半面、肉は大喜びする。
実にいのちに至る道はせまく細い。

私たちはひづめが分かれているどころか、五本指で立つ者である。
神はどれほどきよい者として私たちを創ってくださったことか。
願わくは、実際においてもそうありたい。
例えば、余計な寄り道を控えた日は、実際にきよいのである。
寄り道を控えるだけできよめを実現できる(歩みに関して)とは、ありがたい話ではないか。