聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

豚肉を食べない人たち

<動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。(レビ11:3)~それに豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。(レビ11:7)>

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は旧約聖書を正典としている。
それゆえ、旧約で汚れたものとされた豚肉を食べないものと思われる。
イスラム教では、もう一つの正典、コーランでも禁じているそうだ。
キリスト教徒は食べることが許されている。
新約聖書で、汚れた動物をすべてきよめたという記事があるからだ(使徒10章)。

そもそも、なぜ聖書は反芻しない動物を汚れたものとみなしたのだろう。
例えば牛は牧草を食べるとき、一度胃袋に飲み込んでから、しばらくするとそれを口に戻し、再びそれを咀嚼してまた飲み込む。
この繰り返しを反芻というが、そのようにして牧草の栄養分をできる限り搾り取る。
しかし、豚は反芻しないで飲み込んでしまうようである。
私も小学校の授業でお米は五十回噛むように教わったことを記憶している。
確かに五十回も噛むと、お米の甘さを感じたものだ。
それがお米の栄養分なのかはよくわからないが。
しかし、その手間が煩わしく、ついよく噛まないで飲み込んでしまう。

パウロは言う。
<「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。
いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。
むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。
なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀するものが分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです(Ⅰコリント9:9、10)。>

つまり、冒頭の聖句も、動物を通して私たちに言っていると思われる。
私たちも心の糧である聖書の言葉をよく噛まないで(繰り返し読まないで)飲み込むなら、反芻していない動物のようなもので、汚れているのである。
幸いな人は<昼も夜もそのおしえを口ずさむ(詩編1:2)>と言うとおりである。

新約を生きるクリスチャンは<神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない(使徒10:15)。>というきよめの恵みの中におり、反芻せずとも赦されている存在ではあるが、旧約の精神を忘れるべきではないように思う。
聖書の言葉を繰り返し読み、その養分をできるだけ搾りとる者が、実際に地上においてもきよめを体験できるものと私は考える。

例えば、聖書を読んでいると、必ず一つや二つ気になる箇所があるものだ。
そのとき、そこを読み飛ばさずに立ち止まり、その箇所を昼も夜も口ずさむなら、新たな気づきがあり心が明るくなる。
その明るさが、地上で体験できるきよめのひとつではないかと私は考える。
あるいは、クリスチャンであれば暗唱成句の一つや二つを持っており、ふとしたときにその聖句を思い出すことがあろう。
そのとき、その人はその言葉を反芻しているのだから、実際にきよい者なのである。
(厳密には反芻するだけでは実際にきよいと言い切れないが、こと反芻に関しては。)