聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

悪霊追い出しは簡単か

<そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。(マル5:10)>

ここは説明の必要のないほどに有名な聖書箇所である。
イエスが多数の悪霊であるレギオンを追い出すところである。
ここに、案外、悪霊追い出しというのは簡単なのかもしれないと思わせる描写がある。
上記の聖書箇所である。
ここでレギオンは、<この地方から追い出さないでください。>とイエスに懇願しているのである。
この男から追い出さないでくださいではなく、この地方からというのである。
そうして自ら豚の中に追いやってくださいと、イエスに願い出た(5:12)。
ここから、悪霊は人間の中に居座ることよりも、ある特定の地方に居座ることに重きを置いていることがわかる。
特定の地方に居座れるのなら豚の中でもかまわないのである。

レギオンとは、ローマ軍の一個師団のことで、その数は六千人と言われているが、ここでは、おそらく二千匹の悪霊がこの男に入っていたと思われる。(二千匹の豚が溺れたことから)
なんと二千匹の悪霊が、揃いも揃って人の中に居座ることにこだわっていないのである。
そう思うと、悪霊追い出しは案外簡単なのかもしれないと思えてくる。

 

エデンの園に表れた十字架

<神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創3:21)>。

ここに皮の衣を着せて下さったとある。
アダムとエバは、自分たちでこしらえたいちじくの葉では神に受け入れられなかった。
神の用意した皮の衣によって受け入れられたのである。
皮の衣を「作った」ということは、罪のない動物が屠られ、血が流されたことを意味している。(無から新しく創ったのであれば、「創った」になるだろうから。)
おそらく羊が屠られたのだろう。
やはり罪の赦しには犠牲が伴なうことを聖書は伝えている。
アダムとエバは、神の用意した動物の皮で全身を覆って、初めて神に受け入れられ、また、自分を受け入れることができた。
自分たちの行い(いちじくの葉)では、受け入れられないのだ。
さらには、善悪で(善悪の木の実を食べて)自分を評価すると全てが恥ずかしく思えるから、全身を覆う必要があったのかもしれない。
しかし、動物の犠牲では完全ではなかったのか、エデンの園からは追い出されてしまった(3:23)。

だが、動物の犠牲にはるかに優るイエスの犠牲は、我々を完全に赦すことが出来る。
<傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によっ(Ⅰペテ1:19)>て救われるのだ。
そうして、不完全な動物の衣ではなく、<主イエスキリストを着(ローマ13:14)>て日々を歩んでいく。
この真の衣は、やがて来る完全なエデンの園と言っていい天の御国に導き入れることが出来る。

だから、この皮の衣は、イエスキリストの十字架の予表と言える。
創生の始めより、罪の赦しには身代わりの犠牲を必要とすることを聖書は伝えている。

 



ダビデの自己回復

<主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか(詩13:1)。>

詩編でのイエス様、天の父、聖霊様、すなわち三位一体の神は、さながらカウンセラーが行う「傾聴」の態度で臨んでおられる印象を受ける。
ダビデを始めとする聖徒たちの苦悩にほとんど口を挟まず、黙って聞いてくださるのだ。
ダビデの思いを、受け入れるでもなく、拒むでもなく、アドバイスを送るでもなく、慰めるのでもない。
ただただ、黙って聞いてくださるのだ。
やがてダビデの心は、少しづつ自己回復していく。
1、2節ではただつぶやいているだけであるが、3節に入って、積極的に願いを言い表すようになった。
<私の神、主よ。私の目を輝かせてください(3節)。>。
冒頭で、ある程度、愚痴を吐き出すことによって心が落ち着きを取り戻したのだろう。
そうして最終的には、ダビデは救いの確信にたどりつく。

<私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます(詩13:5)。>。
1、2節で嘆いていたダビデは、5節ではもう喜んでいる。
その間、神は何もされていない。
ただただ、ダビデの思いを天から御覧になっているだけである。
しかし、私はこう思う。
生まれたての小鹿が、足をふらつかせながら懸命に立ち上がろうとしているとき、傍の親鹿は祈るような気持ちで見守るように、三位一体の神もそうなのではないかと。
ダビデが自分の足で立ち上がるのをじっと待っておられるのだ。
ダビデは見事に<あなたの恵みに拠り頼>む決断をし、<あなたの救いを喜>ぶ先取りの感謝にまで至った。すなわち立ち上がったのだ。
そうしてダビデは最後に気付く。
<主が私を豊かにあしらわれた(6節)>ことを。

 

 

聖霊体験2(賛美集会)

あるとき、教会から車の運転を任されたことがあった。
いつものように主日礼拝を守り、さあ、そろそろ家に帰ろうかというときに、ある教会員に呼び止められた。
なんでも、夕方から姉妹教会で青年特別賛美集会が開かれるが、運転手の都合が悪くなったので、代わりに、現場まで中高生の教会員を送り届けてくれないかというものだった。
快諾したのだが、一つだけ問題があった。
ワゴン車で大人数乗せて走るのだが、その車にはカーナビがなかったのである。
私は大の方向音痴で、ナビがないと必ずといっていいほど道に迷う者である。
以前、仕事で社用車を使っての外回りを経験したが、その車にはナビが積んであったのでどれほど助けられたかわからないほどであった。
嘆いても仕方がないので出発したが、渡されたのは、手書きの住所と簡単な地図のみ。
こういう場合、本来は、助手席の者がナビをするのが暗黙のルールであるが、困ったことに、助手席は運転経験のない若い者で期待は出来ず、実質、私一人で判断せざるを得ない状況だった。(当時はスマホが出る前で、携帯のナビもない時代。)
都内のA地点からB地点への移動でなかなかの距離があったが、都内の道をご存知の方ならお分かりいただけるだろう、都内の道に精通していない方向音痴が、これを事前下見なしで、ぶっつけ本番で手書きの住所だけを頼りに辿り着くのは、至難の業である。
助手席の者に、地図を元に案内してもらうのも期待できないのである。
あまり迷うなら集会の開始時間には間に合わないだろう。
普段ならかなり混乱する状況であるが、そのときは不思議と落ち着いていた。
遅れたらしょうがないか、と開き直るでもなく、なんとかなるだろうという楽観的な気持ちでもなく、とにかく、なんの雑念もなかったのである。
おそらく、聖霊様が強く私の心に働きかけて下さっていたのだろう。
教会を出発し、私はとにかく道路の青看板を頼りに運転を進めていった。
車内は若い者が多かったからか楽しい雰囲気であった。
私も助手席の若い者と楽しく会話をしながら道中を進んでいった。
とにかく頼りは道路の青看板で、これに従いながら目的地に向かったのである。
ここからはうろ覚えなのだが、結論から言うと、なんと、一度も道を間違えることなく現場の教会に辿り着いた。
なんとなく運転していたら、ひょっこり目的地の教会が現れたのである。
現場近くになって迷うようなら、一時停止して、手書きの住所と地図をにらめっこして、場所の絞り込みをしようと考えていたが、その必要もなく着いてしまった。
ありえるだろうか。
一度も、手元の住所も地図も見ることなく、着いたのである。
とにかく、定刻よりも随分余裕を持って着くことが出来た。
中高生たちは、その姉妹教会の者たちと交わりの時間を沢山持てて楽しそうであった。
賛美集会を終えての帰り道も同様、迷うことなく教会に辿り着いた。

カーナビとは、カーナビゲーションの略語で、ナビゲーションという英語はへブル語のナービーから来ている。
ナービーとは預言者という意味である。
その車には、真の預言者である聖霊様が乗っていて、私を導いたのだろう。
私はその預言を聞くことはなかったが(霊的耳しいなのは、ただただ悲しいが)、私の霊がその預言に従って運転していたのだろう。
これ以上に力強い案内人が他にどこにいるだろうか。
神は、私を憐れんだ以上に、その賛美集会を楽しみにしていた中高生たちを愛したのだ。
もし、これが聖霊様の働きでないなら、ただただ不思議な出来事である。

 

ヨセフの信仰と忍耐

<~その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタ1:20、21)>。

イエスの肉の父ヨセフは、イエスがまだマリヤの胎の中にいたときに受けた上記の預言を信じた。
<正しい人>であったとあるので決して常識知らずの人ではなかったことが分かる。
常識を踏まえる人物でありながら、マリヤが聖霊によって身ごもったという非常識的なことを信じたのである。
信仰は非常識的なことを信じるように求めることがある。
これは常識的、理性的な人ほど困難を覚えるものである。
しかし、ヨセフは信じたのである。
上記の預言の二つ目の内容は、<ご自分の民をその罪から救>う、すなわち、イエスが旧訳聖書で預言されていたメシヤであるということである。
なんと、ヨセフはこれも信じるのである。

ヨセフ家の中でのイエス様の存在はどうだったのだろうか。
聖書には書かれていないが、時にはヨセフの信仰が揺らぐこともあったのではないか。
一説によると、やはり当時、近隣では噂が立ったようである。
イエスの本当の父は誰なのだろうか、と。
下品な噂では、マリヤはローマ兵に乱暴されて子を宿した、それがあのイエスだというそういう内容もあったという。
もし、この噂がヨセフの耳に入ったとしたら、ヨセフはその都度苦しんだのではないか。
ヨセフも人の子である。
時には、「もしかしたらそうかもしれない。」と疑うこともあったのではないだろうか。
しかし、その都度、上記の預言、<その胎に宿っているものは聖霊によるのです>を思い起こし、信仰を新にしたのではないだろうか。
この戦いを生涯続けたとしても、不思議ではない。

二番目の預言、「イエスがメシヤである」についてもそうである。
聖書は、ヨセフがいつ天に召されたかを記していない。
すなわち、これについては神の領域で、私たちが知ることができない事柄である。
だから、イエス様の三十歳を過ぎてからの公生涯の偉大な働きを見たのか見なかったのかはわからない。
なので、ここからは完全に仮の話になるが、もし、ヨセフがイエス様の公生涯前に天に召されていたとするなら、冒頭の預言の成就を見ないまま地上生涯を終えたことになる。
すなわち、イエス様のメシヤとしての働きを見ないままで生涯を閉じたのである。
その場合のヨセフの信仰はどうだったのだろう。
イエスがヨセフの大工の仕事を手伝っていたというなら、父としてはどんな気持ちだったのだろうか。
わが息子は大工仕事は覚えているが、メシヤとしての働きをする兆候は一向に見られないな、などと思ったこともあったのではないか。
しかし、これについても、都度、御使いの預言、<この方こそ、ご自分の民を罪から救ってくださる方です>を思い起こし、信仰を新にし続けたのではないだろうか。

私たちも同じである。
ヨセフはイエス様の初臨の働きを見たのか見なかったのかわからないが、私たちはイエス様の再臨の働きを見るのか見ないのかわからないのである。
私たちも堅く信じなければならない。
黙示録に描かれているイエス様の再臨の働きを。
今度は天地に火のバプテスマを起こすために来られるのである。
イエス様を信じる者は天に引き上げられ、そうでない者はそうでないところに行く。
このことを堅く心に留め、イエスを信じる者の天国の保証を感謝しつつ、残された地上生涯を精一杯歩みたいものである。