聖書ブログ

聖書のことを中心に書かせていただきます。引用は新改訳聖書第二版です。よろしくお願いいたします。

聖霊体験(東日本大震災)

私は、過去に、強い聖霊体験をしたことが数えるほどしかない。
もちろん、日々、聖霊様が私に働きかけて下さっていると信じているが、体感として聖霊の強い臨在を実感したことが数えるほどしかないのだ。
あるいは、もしかすると毎日、聖霊様は強く働きかけてくださっているのかもしれないが、あくまで私が、五感に訴える聖霊の働きを求めているから、私がそれに気付いていないだけかもしれない。
いずれにしても、もし、聖霊体験に乏しいとすれば、恥ずかしい限りである。

東日本大震災の後すぐに、教会として被災地に奉仕の働きをすることとなった。
具体的には、津波で泥まみれになった民家の掃除をするというものだった。
午前、午後にそれぞれ一軒づつの合計二軒清掃させていただいたのだが、日帰りのため、朝早く東京の教会を出ての強行日程だった。
ワゴン車で出掛けたのであるが、被災地に入って、車内は静まり返った。
あまりの惨状だったからである。
このような光景を見たのは生まれて初めてだった。
この惨状を目にして、後から思えば、「とにかく今日は精一杯仕えよう」という気持ちになり、すべての雑念が消えていったように思う。
午前中の家も、午後に訪れた家も床一面泥に覆われていた。
二階部分も同様であった。
住民の方は、もう元には戻らず、取り壊すつもりであるが、せめて綺麗な状態にしてから取り壊したいと仰った。
それを聞いて、私を始め教会員全員が、一心不乱に泥を取り除いた。
午後に訪れた家も同様だった。
一面泥に覆われており、壁も一部はがれている状態だった。
正直、体力がもつのか不安だったが、とにかく取り掛かった。
教会員の中には若い中高生もいたが、午後の遅い時間になると、一人、また一人と疲労から、しゃがみこんでいった。
私も正直、限界が来るのかと思っていたが、ここで不思議な出来事を体験した。
身体が全く疲れていないのである。
泥をかき集め、外に運び出す際には、ネコという一輪車を使用するのであるが、そこに大量の泥を載せて運んでも体が動き続けたのである。
(この一連の作業はなかなかの重労働なのだが。)
私は、学生時代、運動系の部活を経験したことはほとんどない。
体は健康な方であるが、筋力に自信がある方ではない。
ところが、この日、身体が動き続けたのである。
最終的には、その日応援に駆けつけてくれた現役の土木作業員の大柄な若い方と私の二人だけが、作業を続けていたのである。
作業を終えた帰りの車内でも、身体はほとんど疲れていなかった。
心中、翌日の筋肉痛は覚悟していたが、それもほとんどなかったのである。

これは今、思い返しても不思議な出来事である。
運動系の部活の経験はほとんどないが、スタミナには自信があったので、最後まで息が上がらなかったのは想像できなくもないが、筋力の方は説明がつかない。
その日の後半、全身筋肉痛で動かなくなってもおかしくなかったがそれもまったくなかったし、翌日以降もまったくなかったのである。
やはり、聖霊様が働いてくださったのではないだろうか。
もしそうであれば、私は聖霊の力を身を持って体験したのである。
被災地に対するイエス様の深い憐れみは至るところであったのだろう。
イエス様は、私のような者を用いてさえ、被災地で働いてくださった。

住民の方が、綺麗になった家を見て、少しでも喜んでくださったなら幸いです。
今更ではありますが、被災地の方々の更なる回復を改めてお祈りいたします。



ウザ打ち

<すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ(Ⅱサム6:7)。>。

いわゆる「ウザ打ち」と言われている聖書箇所である。
ダビデは、サウルよりも信仰心に厚く、神の箱のことを思い起こした。
この時、神の箱は、アビナダブの家に長く安置されており、それを自分の町へ運び出そうとしたのである。
ところが、その道中、神の箱が、牛が引っ張っている台車から落ちそうになったため、神の箱の傍にいたウザが、それを支えようと、反射的に手を伸ばし箱を押さえた。
契約の箱は、決して手に触れてはいけないものだったので、神の怒りがウザの上に下り、ウザはその場でいのちを落とす(心臓発作かなにかだろうか)。
それを見たダビデは、悔い改め、正しい方法で(Ⅱサム6:13)神の箱を運び入れた。

このような話である。
やや、ウザが気の毒のようにも思える。
物が机の上から落ちそうになったら、反射的に手を出してしまうのが人間の性のように思える。
しかし、契約の箱は、決して直接手を触れてはならず、日本でいう御神輿のように、箱の四隅についている環に棒を通して肩にかついで運ばなければならない物である。
そして、レビ族の中のケハテ族が箱を担ぐのであるが、ウザがケハテ族の者だったかどうか、これははっきりしない。
とにかく、台車にのせて運ぶのは、以前、ペリシテ人がとった方法であり(Ⅰサム6:7)、これは律法に反する方法である。
ウザはアビナダブの家で契約の箱とともに長く過ごしており、恵みも多かっただろうが、緊張感も失っていたのだろうし、律法にも精通していなかったのだろう。
つい、軽い気持ちで手を伸ばしてしまったと思われる。
我々もイエス様と共に長く過ごすと馴れ合いになってしまう恐れがある。
それはともかく、ダビデはこれを見て、正しい方法で、改めて契約の箱を運んだ。
おそらく、ウザの位置に誰が立っていたとしても、手を伸ばしていたように思える。
だから、ウザはそこにいた全員の代表として、身代わりの死をとげたといえなくもない。
ウザ以外の者は、無傷なのだから。
それゆえ、わずかではあるが、ウザの中にイエスキリストの十字架が見える。
これにより、ダビデを始めとする全員が悔い改め、神の箱を正しく取り扱った。
私自身も、自分の行いが正しくないとき、同じ過ちを犯していた他の者が懲らしめを受けたことにより、悔い改めたことがある。
自分が痛むことなく、無理なく悔い改めることができたのだ。
そのときの私は、ウザへの裁きを見たダビデのようだったのだろう。
今思えば、感謝なことであった。

 

 

エチオピアの宦官

<~すると、そこに、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた(使徒8:27、28)>。

なんという飢え乾きだろうか。
この宦官は、一国の財務大臣という高い地位にありながら、他国の神を拝みにイスラエルまで遠路はるばるやってきたのである。
エチオピアからエルサレムまで、その距離はおよそ三千八百キロメートル。
これは、日本では、沖縄から北海道までの距離に相当する。
当時の旅行というのは、片道半年から一年をかけて移動するということがあったようだから、この宦官も長い年月をかけて、わざわざエルサレムまでやってきたのだろう。
しかも物見遊山ではなく、<礼拝のためエルサレムに上>ったとあり、明らかに神を求めてエルサレムにやってきたのである。
さらに驚くべきは、神殿礼拝を終えた帰り道も、<馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた>ことである。
揺れる馬車の中で聖書を読むことは相当困難であると思われるが、そんなことはお構いなしに、熱心に聖書を開いていた。
神を激しく求めていたことがここからもわかる。
相当な飢え乾きだったのだろう。

ここからはさらに想像をたくましくするが、この宦官は、一国の財務大臣にまで上りつめて社会的にも経済的にも成功したものの、喜びに乏しい毎日だったのではないか。
高い地位と引き換えに自分は不具の身にならなければならず(おそらく女王に仕えるに当たっての性的トラブルを避けるため)、結婚の祝福はあきらめなければならなかった。
社会的、経済的成功では満足できず、性的祝福は望みようもない。
一定数の人がそうであるように、この宦官も消去法的に神を求めていったのだろう。
また、もしかすると、神殿礼拝は叶わなかったのかもしれない。
なぜなら<こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない(申命23:1)。>と律法にあるからである。
遠路はるばるやってきたものの、エルサレム神殿を前に、門前払いを食らってしまったことも考えられる。
あるいは、神殿礼拝は叶ったものの、その礼拝は形式に流れすぎていて生きた礼拝ではなかったとか。
考え出すとキリがないが、帰り道に揺れる馬車の中で聖書を開くくらいだから、飢え乾きが解決していなかったことは間違いないだろう。
なんと激しく神を求めていることか。

神はこのような魂を決してないがしろにはされない。
なんと、時の大伝道者ピリポを、この身に欠陥のある外国人に備えなさるのである。
繰り返すが、モーセ律法では不具の者は神から退けられているにも関わらずである。
この時のピリポは、一信者(エルサレム教会の食卓係)でありながら、サマリヤに大リバイバルを起こした大伝道者であり、まさに今、油が乗っているクリスチャンである。
その者を一外国人におしみなく備えなさるのである。
折よく、宦官が開いていた聖書箇所は、十字架のキリストを明確に預言した箇所であり、それゆえ、ピリポもこの上なく伝道しやすかっただろう。

「あなたのその飢え乾きは、社会的成功、経済的成功によって満たされるものでは決してないと思うし、性的祝福が取り去られたから生じてしまったとも言い切れません。
幸せな結婚生活が全てを解決するとは思えないからです。
そうではなく、人は一人の例外もなく神から離れてしまっているから霊魂が飢え乾いているのであり、また、神から離れよう離れようとする性質、これを罪といいますが、この罪があるから、霊魂が飢え乾いているのです。
この根本問題を解決する唯一の方法は、十字架のイエスキリストによってこの罪が処分されたとただ信じ、神との和解を信じることなのです。そして、神に近づこう近づこうとするいのちの御霊を受けて、神の元に帰ることです。
このとき、初めて霊魂に本当の満たしがあり、あなたの飢え乾きは解決するのです。」

私なら上記のように伝道すると思うが、ピリポの伝道はどうだったのだろうか。
<イエスのことを彼に宣べ伝えた(使徒8:35)。>としか書いてないから詳しくはわからないが、とにかく、ピリポの適切な伝道があったのだろう、最後、宦官はバプテスマを受け、<~喜びながら帰って行った(使徒8:39)>のである。
彼はついに救われた。

それにしても、神はまさに天空から全方位を見渡しておられることがわかる。
サマリヤで大リバイバルが起こっている一方で、ガザに下る荒れ果てた道にいる外国人を見落とされない。
まさに、失われた一匹の羊を求めて、救われる必要のない九十九匹を野原に残しているようである(ルカ15章)。
そして、神を激しく求める者には、惜しみなく時の大伝道者を差し出されるのである。
繰り返すが、この宦官はモーセ律法では忌み嫌われていたこうがんのつぶれた者であり、ユダヤ人との付き合いが禁じられていた異邦人なのである。
新約の時代に至って、モーセ律法は終わりを告げ、福音の扉が本格的に開かれていることがここからもわかる。
わたしたちも、どうせ私は気付かれない存在だろう、わたしのような汚れた不完全な者は退けられるだろうと腐らず、熱心に神を求めるべきである。
必ずや、神はその者を救ってくださるだろう。

 

 

医療保険のCM

ある先生が言っていた。

自分が何か契約を結んだときは、その契約書で自分にとって有利な条項を、目を皿のようにして探さないだろうか。
一度それを見つけたら、それを心の支えにしないだろうか、と。

まったくその通りだと思う。

例えば、就職の際は、会社と雇用契約を結ぶが、自分の待遇面を目を皿のようにして眺め、給料はいくらだとか、賞与はいくらだとかを見るだろう。
そうしてその待遇を心の支えにして、日々歩んでいくだろう。
では、解雇に関する条項についてはどうだろうか。
これは、明らかに自分にとって不都合な条項ではあるが、これについても必ず確認しないだろうか。
どういった場合に解雇されてしまうのか確認をして、その条項に触れないように日々努めるだろう。

よくテレビで流れている医療保険のCMでも、一日入院費用五千円支給などの文言を信じて契約を結ぶだろう。
そうして一度、契約を結んだら、その文言を信じて安心するだろう。
また、私たちにとって不都合な条項は、隅に小さな文字で書いてあることが多く、そのため見つけづらいが、そういった不都合な条項も、骨が折れる作業であるが併せて調べるだろう。

聖書は、旧約聖書、新約聖書と言って、自ら契約書であることを名乗っている。
幸いなことに一節一節に数字が振られていて、まさに契約の条項さながらである。
私にとって幸いな言葉もそうでない言葉も、等しく書かれてある。
自分にとって有利な聖句を生涯握って心の支えにするのは、多くのクリスチャンが取っている行動で、素晴らしいことである。
例えば、<あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペ2:8)>などである。
また、自分にとって不都合な聖句もしっかり確認し、万が一にも天の御国から漏れることのないよう準備を整え、地上生涯を送っていることも素晴らしいことである。
例えば、<あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(Ⅰコリ6:9、10)>などである。

積極的なクリスチャンは、自分にとって有利な聖句をたくさんこころにたくわえ、日々、喜んで過ごしている。
危機管理能力の高いクリスチャンは、自分にとって不利な聖句をこころに止め、日々、緊張感を持って過ごしている。
どちらも必要な態度と思われる。


クリスチャンに与えられたセルフイメージ

クリスチャンに与えられたセルフイメージとはどんなだろうか。

聖書が伝えるセルフイメージを示すと以下のようになるだろうか。

キリスト者は、法律的には、神から<価なしに義と認められ(ローマ3:24)>て正しい者とされた義人であり、経済的には、神の<全財産の持ち主(ガラ4:1)>である相続人であり、軍事的には、肉と世と悪魔とその軍勢と戦う<キリスト・イエスの立派な兵士(Ⅱテモ2:3)>であり、また、それに勝利した<圧倒的な勝利者(ロマ8:37)>であり、家柄的には神の家に属する<神の子ども(ガラ3:26)>であり(それゆえ、例えば、名門ハプスブルグ家の御曹司どころのはなしではない)、内面的には、汚れをきよめられ<聖なる者とされ(Ⅰコリ6:11)>、また、<神の御霊を受け(Ⅰコリ2:12)>た者であり、階級的には、<私たちを王とし(黙示1:6)>てくださり、しかし、消極的に言えば、盲目で弱い羊のような存在でもある。
その他、地の塩、世の光などもある。

このように見ていくと、クリスチャンがいかに凄い存在であるかがわかる。
まったく正しく、超がつく大金持ちで、最高の家柄で、世を支配する支配者などというのである。
これらを、ただ、信仰により受け取れるとは、驚くべきことである。
もちろん、わたしたちは裸の王様ではない。
神が言っているのだから、本当にそうなのである。

私自身について言えば、調子を落としているときには、義人、相続人などの前向きなセルフイメージで自分を奮い立たせ、勢いがついているときは、羊のような無力な存在でもある、と言い聞かせて、ブレーキをかけることがある。
逆に、調子を落としているときに、羊のような無力な存在だから仕方がない、といって受け入れて安んじ、勢いがついているときに、圧倒的勝利者なのだから当然、といって喜びを増し加えることもある。

今後、どのように変わっていくかは自分でもわからない。
あるいは、変わらないかもしれない。